「その日、私は一つのことに気づきました。空気が変わったこと、そして2022年2月24日午前5時以降のすべての場面が特殊で、他のそれと異なって、違う物語で満たされていったということです」
全面戦争の最初の週の間、ハルキウの写真家ペトロ・チェカリはハルキウで家族と一緒に過ごし、彼の家族の生活と感情的な状態を記録しました。自由広場の砲撃の翌日であった3月初旬、ペトロの家族は街を去り、そして現在はリヴィウにいます。この戦争の出来事に関する彼の記録として、この写真日記を紹介します。
私の名前はペトロ・チェカリです。現在ロシア軍の攻撃を受けているハルキウの写真家です。私は7年間撮影を続け、15年間音楽に携わり、歌詞や詩を書いています。これらはすべて私の創作活動に集中しています。
戦争の初日、私は自分のための場所を見つけることができませんでした。私は北部で、ウクライナ軍と並んで、そこにいなければならないはずでした。そして、ライフルを手に持っていなくても、カメラを手に持っていていなければなりませんでした。この世界を変えるべきであり、変えるべきであることを写真で示したかったのです。しかし、私は家族から離れることができません。だから私は沈黙していません。私は戦争について、戦争に反対して、音楽を書いたり、撮影したり、書いたりしています。
ジェノサイド、人道に対する罪、ヨーロッパの人道的伝統の限界を超えた死と闇、漠然とした未来への恐れを、まだ終わっていない私の家族の物語の歴史に反映しようとしています…
今、戦争はドキュメンタリースタイルの狂気です。「Magnum Photos」から「Time」まで、ほぼすべての世界のメディアが、私の国の人々、廃墟、生と死を捉えています。どれだけ最初の数日間そこにいたくなかったとしても、どれだけそれを近くで撮影したくなかったとしても、他のすべての場面で戦争を目撃する必要があります。カメラは、カメラなしで見ることを人々に可能とするツールです。
写真は詩です。
さて、エウヘニー・パブロウ、ソル・レイテル、ウィリアム・エグルストン、ハリー・グリュエールなどの作品を見ると、これが写真の詩であるとは言えませんか?
一部の人にとってはフォームがコンテンツよりも優先され、他の人にとっては、フォームよりも比喩が優先されます。だから私は詩と散文、比喩とドキュメンタリーを組み合わせるようにしています。
2022年2月24日(1日目)
その日、私は一つのことに気づきました。空気が変わったこと、そして2022年2月24日午前5時以降のすべての場面が特殊で、他のそれと異なって、違う物語で満たされていったということです。
ショック状態から回復した母のラリーサは、親戚や友人と話しています。みんなは次に何をすべきかを考えています。私たちは今のところハルキウに滞在することにしました。
2022年2月24日(1日目)
私たちを覆った最悪のことは、2022年2月24日午前5時のプーチンの理不尽な演説です。
2022年2月24日(1日目)
開戦から約1時間半が経過しました。両親はショックを受け、父はニュースを見ていて、母は落ち着こうとしています。
2022年2月24日(1日目)
初日が終わります。私たちは疲れていませんが、まだショックを受けています。兄のミーチャと私は、家の窓からハルキウを見守っています。砲撃はまだ始まっていません。それが起きないことを願っています。
2022年2月25日(2日目)
私の家族全員と私の家。
2022年2月25日(2日目)
開戦後の各場面は全く違う空気に満ちた特殊なものであることに気づき、周囲の現実に比喩が見え始めました。これは戦争の比喩の1つです。針のような触手は、できるだけ多くの命を奪いたいと願っています。
2022年2月26日(3日目)
兄は目を覚まし、近づいてくる銃撃を聞いています。
2022年2月26日(3日目)
爆発から目覚め、何かあったらと、ミサイルの種類について調べました。
2022年2月26日(3日目)
母は近くの爆発音に耳を傾けています。
2022年2月26日(3日目)
友人と小さな娘が私たちの家にやって来ました。爆発を待つのは怖くありませんでした。
2022年2月26日(3日目)
私たちの友人のマーシャと彼女の幼い娘のソフィアです。爆発がどんどん近くで聞こえるようになってきたので、マーシャは娘を覆っています。怖いです。彼らはパニックになり、涙を流しました。そしてソーニャは眠っています。
2022年2月26日(3日目)
同じ日の夕方です。沈黙と一時的な停止の後、寝る前に砲撃が再び始まりました。私たちは眠らなければなりませんが、それができません。
2022年2月27日(4日目)
戦争の前と初めにロシアのニュースを見ていた私の祖母は、近くで爆発があったのでウクライナの地図を手に取り、それを勉強し始めました。どうやら、彼女は何かを理解し始めたようです。
2022年2月27日(4日目)
父と私は、破片が飛んでくる可能性があることから窓を閉めることにしました。
2022年3月2日(7日目)
ハルキウを去りました。爆発がさらに近くなり、そこに留まることができませんでした。
2022年3月2日(7日目)
光で闇を切り裂きながら、クレメンチュクに向かう途中です。
2022年3月2日(7日目)
クレメンチュク近郊で、交通渋滞の中5時間過ごしました。私の父は友人に電話をかけて、そこで夜を過ごそうとしています。
2022年3月3日(8日目)
私たちは知人たちと夜を過ごしました。この瞬間、ウクライナがどれほど強く団結しているか、人々がどのように互いに助け合い、支え合っているかを思い知りました。
「ウクライナの未来は地下からやってきて、その光に目を細める」というベラルーシの詩人ストロツェフの言葉を思い出しました。
2022年3月3日(8日目)
ヴィンニッツァに向かう途中、たくさんのバリケードや十字架がありました。
2022年3月5日(10日目)
私たちはヴィンニッツァの寮に泊まりました。たくさんの人がいて、場所はほとんどありませんでした。
2022年3月5日(10日目)
数々の警報、絶望した街や家。
2022年3月5日(10日目)
疲れた母。
2022年3月7日(12日目)
ヴィンニッツァで数日過ごした後、私たちは出発しました。
2022年3月10日(15日目)
リヴィウで、私の母はハルキウにのこった祖母と話しています。辛かったのですが、どういうわけか行くのを拒み、家を捨てることができなかったのです。
2022年3月12日(17日目)
有名なウクライナの文化学者および音楽家であるオレクサンドル・プスコヴィトのもとを訪れています。
2022年3月14日(20日目)
私が見て感じているグラフィカルなリヴィウ。
2022年3月17日(22日目)
チェカチコウ(ハルキウ出身のウクライナ人写真家、イーホル・チェカチコウ)が訪ねてくることになっていましたが、彼は来ませんでした。同じようなスタイルで弟を撮りました。
2022年3月20日(25日目)
ギタリストである私の甥と文化学者である私の友人がリヴィウで私たちのところに来ました。私たちはアリベニスを注意深く聴いています。
2022年3月30日(36日目)
2022年6月4日(42日目)
私は一連の肖像写真を撮り、写真の助けを借りて自分自身を理解しようとしています。そのうち、風に巻き込まれて飛んでくるものもあります。