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ムスタファ・ジェミレフはクリミア・タタール民族運動の指導者の一人であり、活動家であり政治家でもある。彼の家族は、1930年代の反富農政策や1940年代のクリミア半島からの追放に遭ってしまった。ジェミレフさん自身も政治思想により大学から除籍されており、投獄されたことも何度もある。彼は計15年間、拘禁された経験を持つ。ウクライナが独立して以降、彼は政治活動に積極的に参加し、10本以上の法案を提出してきた。ロシアによるクリミア半島占領により、世界的に有名な人権保護活動家のジェミレフさんは、今日まで何年も故郷に帰れていない。

富農(クラーク、ウクライナ語ではクルクーリ)とは、ソ連時代における富裕農民。クラーク、クルクーリは蔑称。農業集団化に反対していた。

2014年2月、クリミア半島には、完全武装した所属不明の覆面兵士が現れ、半島の戦略的需要地点を奪取した。その中で、2014年3月16日にクリミアの地位を問うとされるいわゆる「全クリミア住民投票」が行われたが、世界の大半の国はそれを認めなかった。ロシアは、その結果をもとにクリミア半島を自国に併合した。

当時、クリミア・タタール人は抗議集会を開き、ウクライナの領土一体性を維持することの必要性と、ロシアへの統合反対を訴えていた。ロシアによる占領が始まると、ロシアによって迫害される恐れから、1万人以上のクリミア・タタール人がクリミア半島を去った。現在ロシアは、クリミアの人口構成を変えるために、占領に抵抗する人に圧力をかけつつ、ロシア国民をクリミアへ移住させている。

国際連合を含む国際機関はクリミア半島を違法な占領と認定し、ロシアの行動を非難した。ロシアの対ウクライナ侵略を止めることを目的に、40以上の国が経済制裁を発動した。

Ukrainian Instituteと共同で制作されたシリーズ「我がクリミア」(英語:“We are Crimea”)では、VR技術を使って、クリミア出身者たちが自分にとって大切なクリミアの場所を訪れ、クリミアにまつわる自分のストーリーや想いを語る。

写真:オレフ・ぺレヴェルゼウ

ムスタファという人

ムスタファ・ジェミレフ(クリミア・タタール語:Mustafa Cemilev)が1943年にクリミア半島で生まれた時、クリミアはドイツ軍に占領されていた。1944年の春にソ連軍がやってくると、ムスタファも彼の家族も含めて、クリミア・タタール民族全体がウズベキスタンに追放された。

「それからクリミアに戻れたのは1989年でした。当時はペレストロイカの時代であり、帰還に対して罰せられることはなくなっていましたが、居住許可はもらえないままでした。そこで、我々の民族運動のいわゆる第二戦線が張られたのです。人々は家を買い、居住許可を求めました。集会や抗議、そしてハンガーストライキという手段によって自分の故郷を取り戻そうとしたのです。」

1991年に74年ぶりに行われた「クルルタイ」というクリミア・タタール民族大会でムスタファ・ジェミレフさんは「メジュリス」の代表に選ばれた。「メジュリス」というのは国会に似た、クリミア・タタール民族の代議機関である。その目的は、クリミア・タタール人に対するジェノサイドの被害の克服や、権利の回復や民族領域自決の追求である。現在、メジュリスの代表はレファト・チュバロフである(2021年6月1日現在で、ロシアの占領政権によって6年間の投獄判決を出されている)。

「メジュリスの会則によると、代表任期は5年なのですが、私は何度も再任されて、2013年までずっとメジュリスの代表を務めました。同時にウクライナの政治にも携わりました。」

クリミア占領開始以前は、ムスタファ・ジェミレフさんはウクライナ国会議員として多くの時間をキーウ(キエフ)で過ごしていたが、会期がない時は、クリミアに戻っていた。彼の最後のクリミア滞在は2014年4月19日であった。彼が国会に出るためにクリミアを去ろうとしたら、チェックポイントでロシアの軍人から5年間のロシア入国禁止命令を伝えられたのだ。

「渡されたのは署名も印鑑もないただプリントアウトされた紙でした。私は聞きました。『どうしてあなたの国へと入国禁止となったのですか。追放先からクリミアへ帰還して以来、私はあなたの国ロシアへは一度も行ったことがありませんし、行きたいとも思いません。』すると、彼らは『クリミアもロシアなのだ』と返事したのです。それに対し、私は『5年間もここにいられると思っているとは、余程の楽天家なのですね』と返しました。」

当時、クリミアの占領が長引くとは思っていなかったとジェミレフさんは振り返る。しかし、彼がクリミアに行けなくなってからもう7年が経つ。

「親戚のほとんど、とても多くの友人がクリミアに残っています。この6年の間に多くの身近な人が亡くなりましたが、私は葬儀に行けなかったのです。占領はいつか終わると確信しています。なぜなら、他の結末にはなりようがないからです。これは、国際秩序にとっての大きい課題ですが、その解決は時間の問題だと思います。私は、返還後、クリミアは大きく変わると思っています。」

写真:オレフ・ぺレヴェルゼウ

ムスタファ・ジェミレフさんは、人権活動家や反体制活動家、政治犯として活動してきたため、ソ連の抑圧的支配とその手段をよく知っている。当時は政権と異なる見解を持つ人に対して多数の家宅捜索が行われ、時には銃殺刑まで行われた。2014年以降の被占領下クリミア半島では秘密誘拐や殺人、覆面をした人による捜索令状のない家の包囲等が行われており、その手段はスターリン時代を彷彿とさせるという。

「捜索の時、彼らはできるだけ多くの損害や屈辱を与えようとします。私たちは、彼らは私たちにわざと何らかの抵抗をさせようとしているのだと思っています。後でより激しい抑圧をするために。」

ジェミレフさんによると、クリミア・タタール人はクリミアに住んでいなければ民族として維持できず、そのため、人々は個々の政治的見解を問わず、「祖国へ帰る」という願望によって団結しているという。彼によれば、必要なのは、第一に占領政権からのクリミアの解放、第二にクリミア・タタール人の言語・文化・伝統の保護や発展が保証されたウクライナ内での民族領域自治を回復することだという。

「昔は、ウクライナの地のかなりの部分がクリミア・ハン国の一部でした。今は、私たちがウクライナの一部となっています。私たちの間で、立場が変わることはしばしばありました。しかし、ばらばらになると、私たちはウクライナを失うことになります。だから、私たちは、絶対にウクライナの一部であり続けるのです。私たち、先住民は、ウクライナ国家の根幹であり、一部です。だから、ウクライナの中にあるものは全て『自分たちの物』と感じるのです。」

村に入るムスタファ・ジェミレフさん、アイ・セレズ、2005年

アイ・セレズ ~実家~

アイ・セレズ(クリミア・タタール語:Ay Serez、1945年以降:ミジリッチャ)はクリミア南東におけるスダク市の近くの村である。ジェミレフさんの先祖は代々その村に住んでいた。1930年代にジェミレフの両親は、反富農政策の下で家や資産を奪われ、ウラルに追放された。

「ブドウ園や数頭の牛を持っていたんですが、ソ連の政府からすればそれは贅沢だったということです。両親はウラルから逃げましたが、クリミアにはすぐに戻らずに、メリトポリに移住しました。その後、クリミアに帰還しましたが、内務人民委員部(スターリン政権下で秘密警察)を懸念し、先祖の住んでいた村には帰らないことにして、クリミア北部のフライドルフ地区のボズコイ村に住み着きました。私が生まれたのはその村です。そして、1944年、私たちはその村から追放されたのです。」

1989年にクリミアへ帰還すると、ムスタファ・ジェミレフさんはクリミア・タタール民族運動のリーダーとしてアイ・セレズには帰らず、クリミアの中心地に住むことになった。最初はシンフェローポリ市の近くに小さい家を買い、やがて、バフチサライに引っ越した。ただし、毎年、先祖の村も訪問していた。

「大規模帰還以降、クリミアでは、それぞれの村で『村の日』を祝う新しい伝統が生まれました。村の日には、村の出身者やその家族たちも村を訪問して、村人と一緒にお祝いをしていました。それで私も毎年アイ・セレズを訪問していて、村人と会ったり、両親の家に訪ねたりしていました。」

アイ・セレズの実家のそばに立つムスタファ・ジェミレフさん

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実家、アイ・セレズ、2012年

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ジェミレフさんは1944年に追放される前の家を購入しようとしたが、その時にはジェミレフさんはすでに有名な活動家になっていたため、家の所有者から5万ドルという高い値段を求められた。長い間買うことができなかったが、やがて「クリミア基金」というチャリティーのおかげでその家を購入することができた。

「家は目立つ建物ではありませんでしたが、ソ連の基準では1.5階ある家は大きくて贅沢だと思われたのでしょう。それで、家を奪われたのです。」

ジェミレフさんの実家を改装し、休暇施設にするという計画があった。しかし、ロシアの占領政権は、この家を含め、「クリミア基金」の全ての資産を差し押さえた。

「今は、私たちは実家を改装できないし、ロシアの占領政権もあえて没収しようとしない、いわゆるどうにもならない宙ぶらりんの状態です。占領政権は、資産を重要視する欧州人権裁判所の判決を恐れているのだと思います。メジュリスの事務所も同様で、閉鎖させ、差し押さえまではしましたが、没収まではできないようです。そして、その建物は少しずつ朽ちていくのです。」

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者:

ボフダン・ロフヴィネンコ

アリーム・アリエウ

プロジェクトマネージャー:

カテリーナ・ポレヴヤネンコ

企画:

ナタリヤ・ポネディロク

編集:

イェウヘーニヤ・サポジニコヴァ

校正:

オレーナ・ロフヴィネンコ

インタビュアー:

カリーナ・ピリューヒナ

360°撮影担当,

映像編集:

セルヒー・コロヴァイニー

ムービーカメラマン:

ミハイロ・シェーレスト

オレフ・ソロフーブ

監督:

ミコーラ・ノソーク

写真編集:

カーチャ・アクヴァレリナ

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

アリナ・クヂナ

翻訳編集:

オリハ・フロモシャク

校正:

平野高志

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