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マリウポリの声とは、包囲されたマリウポリから避難することができた人たちのストーリーを聞くシリーズです。今回は、包囲された都市にいる間、教育ハブ「ハラブダ」から結成された大きなボランティア本部をチームと調整したハリーナの物語です。2016年以来、「ハラブダ」は自由スペースとしても知られており、軍や避難民への支援の中心地としても知られています。戦闘行為の激化とロシア軍による絶え間ない砲撃により、ハラブダの人たち(ハラブディウツィ)は再びボランティアとなりました。3週間足らずで、ハリーナのチームは約25,000人のマリウポリの住民を支援しました。

ウクライナの独立以来、マリウポリはロシアの占領に対し2度抵抗しています。最初、街は2014年に「ロシアの平和/世界」に苦しみました。当時、マリウポリはしばらくの間占領下にあり、その解放後、ウクライナ東部からの多くの避難民のための避難所となりました。これらすべての出来事は、都市の発展と新しい社会的および文化的イニシアチブの創出に弾みをつけました。これについては、2017年に公開されたマリウポリに関するマルチメディアストーリーで詳しく説明しています。そのような新しいイニシアチブの1つは、「ハラブダ」の自由スペースでした。これは、長い間ボランティアのハブであり、そして発展する都市の教育ハブとなりました。

2022年3月、「ロシアの平和/世界」が再びウクライナのマリウポリにやってきました。ロシア軍が都市とその住民を地球上から一掃しようとしている一方で、活動家たちは人々を救うために可能な限りのことをし続けています。

ハリーナと「ハラブダ」チーム

ハリーナ・バラバノーヴァはマリウポリで生まれ育ちました。彼女は言語学を学び、最終的には写真分野に身を置くことになりました。15年間、彼女はジャーナリストおよび写真家として働いていました。2014年、ハリーナと志を同じくする人々のチームは、当時マリウポリに移住していたマリインカの軍、国内避難民、孤児を支援するボランティアセンターを設立しました。その後、この場所は、教育的および文化的プロジェクト、ビジネス支援、社会的成長のためのスペースである「ハラブダ」に変わりました。しかし、2022年2月24日、ロシア軍によるウクライナへの全面侵略の後、すべてが再び変化し、「ハラブダ」はマリウポリの多くの住民にとってのボランティアセンターと避難所になりました。

「最初の砲撃を聞いた日のことをよく覚えています。それは夜でした。眠っている間、遠くで何かが聞こえたのです。しかし、15分後、リヴィウの友人から電話があり、大丈夫かどうかと尋ねられました。それから私は何か違うことに気づきました。その後、Facebookを見て、そしてすべてが明らかになりました。」

最初の日から、ハリーナと「ハラブダ」のチームは、街を助けるための明確な行動計画を立てることに努めました。

「私たち全員が集まって、私たちがここにいることに気付く前の最初の数時間は非常に緊張していました。マリウポリの資産は市内に残っていたので、私たちはさらなる行動の計画を立て始めました。午前4時から5時ごろ、マリウポリの地元の人々は、私たちが過去8年間何をやってきたのか知っていたので、私たちに最初の食料と人道援助を持ってき始めました。彼らは、ここが信頼して助けることができる最初の場所であることを知っていました。翌日、私たちは講座で最初の資金を受け取り始めました。」

活動家たちは、市内で砲撃が活発になる前に、なんとか避難所を準備することができました。

「いくつかの出口を作り、窓を閉めるなどして、私たちは『ハラブダ』自身を最大限守ろうとしました。最悪のシナリオに備えていました。それについて信じたくありませんでしたが、それ以外考えられなかったのです。それは、ある程度、私たちを救いました。」

毎日ハブには、食料、医薬品、衛生用品、そして常に手に入れることができなかったただの水など、基本的な必需品を必要とする約2,000人の住民が訪れました。

「マリウポリの人々は、最初の1週間かそこらの間、非常によく持ちこたえました。メディアはすでに街が包囲されていると伝え始めていましたが、人々は30キロもそばやマッチ、塩を買わずに、いつものように買い物をし続けました。彼らは静かな生活を続け、徐々に蓄えを積み上げていきました。2週目には、より激しい砲撃が始まり、最初の戦車がマリウポリへの入り口に現れました。同時に、戦略的に重要な店が砲撃され始めました。そして、そこにはこの期間中に役に立つ可能性があるたくさんの食物と建築材料がありました。それによりパニックは大きくなりました。それから略奪が始まりました。しかし、誰かから何かを略奪したり盗んだりする倫理を持っていなかった人々が私たちのところにやって来ました。」

長年ボランティアセンターであった「ハラブダ」が、全面侵略が始まって以来、街を積極的に支援したい地元の人々と団結し続けてきたのは当然のことです。

「私たちのセンターには約200人のボランティアが集まりました。すでに経験のある人もいれば、「家でただ座っていることはできません。あなたたちを助けたいと思っています。床か何かを洗いましょうか」と来て言った人たちもいました。この間、私たちは約25,000人のマリウポリの住民を助けることができました。3週間以内で、です。何十人ものボランティアが常に私たちのセンターに拠点を置いていました。そして私たちの隣に3つの避難所を設置し、最初に到着した人々を収容しました。彼らは街の郊外に住んでいて、私たちがそこにいることを知っていたので私たちのところに来たのです。」

ハラブディウツィはまた、ウクライナ軍の支援にも努めています。最初から、チームは軍のいくつかの部隊、軍の病院、およびそこのボランティアとコミュニケーションを行っていました。

「私たちが自分たちで設定した主な任務は、ウクライナ軍とウクライナ義勇軍を支援することでした。ウクライナ軍とウクライナ義勇軍は、2014年からすでにマリウポリにいました。彼らは私たちのところへ最初に来ました。しかし、赤外線カメラや防弾チョッキなどの特殊なニーズにすぐに対応することはできませんでした。したがって、私たちは軍のニーズを満たすために最大限の努力を積み重ねてきました。さらに、私たちは病院とそこで働くボランティアを支援してきました。民間人からの主な要望は、第一に食料と飲料水でした。第二に薬で、おもに血圧、血糖のための鎮静薬や一般的な薬。でした。残念ながら、HIV/AIDSやがん患者の人たちを助けるための特別な薬はありませんでした。残念ですが、私たちは皆を助けることができませんでした。」

「多くの人はパンに満足していました。できる限りパンを焼きました。 最初のトラックは完全にパンでいっぱいで、その半分は左岸に行きました。左岸は最初に遮断されていました。当時、イリッチ工場とアゾフスタリ製鉄所には公式的には約20の避難所がありましたが、私のデータによると、それ以上の避難所がありました。そしてそれぞれの避難所には少なくとも約1,000人がいました。」

避難

日々、ロシア軍は都市をますます砲撃していったので、時間の経過とともにそこに滞在して働くことは不可能になりました。ハリーナは、避難の決定を下す必要があったと回想しています。

「マリウポリでの最後の日は私にとって最も大変でした。何もせず、私はただ街を出ました。いつも8時に起きて犬と一緒に歩いてから、問い合わせを受けていました。そして、それは本当に絶えず来ていました。毎日の終わりに私たちは会議をしました。そして毎晩、軍が市内中心部で何が起こっているかについて話している回線を聞いていました。

私は3月16日に友人と2匹の犬と一緒にマリウポリを去りました。砲撃中の中を6人で小さな車に乗っていました。私たちの出発の30分前に、演劇劇場は砲撃されました。ですから、市内中心部を車で通り抜けると、煙が見えました。私たちは非公式のチェックポイントを通過しました。後で目の前を走っていた車列が「グラート」から砲撃されたことを知りました。他の人より15〜20分遅れてそこに行ったことは幸運でした。マリウポリからマーンフシュまでは約20キロでした。しかし、それは私の人生で最も長い7時間半でした。この道路のほとんどは、連続した車列で埋まっていました。人々は、車を運転したくなかったので、車を押していました。そして彼らの隣で他の人が歩いていましたが、時には車よりも速く歩いていました。

私が持って行ったものは多くありません。マリウポリでの居住許可のある私のパスポートは、最も重要なものです。親族や友人と一緒に写っている過去8年間の写真が保存されているメモリーカード付きのカメラもです。途中で止血バンドやボタン式電話を必要としなかったのは、とても幸運でした。

私にとって最悪だったことは、通信がなくなったときでした。水がなくなって、電気がなくなって、そして通信がなくなりました。それは私たちを街の中で支えていた唯一の最後の糸でした。私たちはいくつかの押しボタン式電話を見つけることができました。そのような電話を使用したことがある人は言うには、そのような電話の方がよりよく電波を捕らえられるからです。ショートメッセージの書き方を思い出さなければなりませんでした。夜中は、たいてい、時折通信がありました。ラシストが砲撃を管理するためだったのでしょう。それは主に最初の到着と2番目の砲撃の間にあったからです。その後、外に出てショートメッセージを送信できました。ほとんどの場合、『私たちは元気で安全』または『砲撃は私たちのところにはなかったけれども、近くのどこかであった』といった短いメッセージでした。そして、ただの愛の言葉、支えの言葉、それ以上のものはありませんでした。詳細はありません。

この電話は私を大いに救いました。一方で、その中にもう一つシムカードがあって、その番号はほとんど知られておらず、約10〜15人が知っていて、そのうちの何人かはマリウポリにいます。それは当分の間沈黙していますが、電話がすぐに鳴ることを強く望んでいます。

私が運び出すことができたもう一つの重要なアイテムは時計でした。父は私にそれをくれて、『いつか、すべてのガジェットが機能しなくなって今何時かわからなくなったら、それが必要になるだろう』と言いました。いつも私はそれを付けていました。通信も電気もないとき、それは私を支えてくれて、毎朝それを見て何時かを理解するように自分を訓練しました。

友達が『ハリーポッター』の逆転時計を残してくれました。彼女に別れを告げる時間はありませんでした。病院用に集めた縫合糸にかかっています。今、逆転時計を使って時間を遡ったとしたら…この8年間の戦争では十分な成果が得られなかったと思います。まず第一に、地元の人々に何が起こっているのか、そして私たちの敵が実際に誰であるのかを知らせることです。また、逆転時計によって、マリウポリに避難所を配置するためのもう少しの時間をとることができれば、と思います。明らかに、私たちは50万人を連れて一度に全員を動かすことはできないからです。しかし、私たちは守るために働くことはできます。もちろん、私は私たちの空を守るためにマリウポリに対空兵器や『ジャベリン』を届けることはできません。しかし、マリウポリの避難所が3か所ではなく30か所あるようにすることができます。それには時間と人が必要です。」

避難におけるハブの仕事

ハリーナとチームの一部は避難することができましたが、それにもかかわらず、彼らはマリウポリのために闘い続けています。

「今、私はリヴィウにいます。そこは、マリウポリに次いで2番目に好きな都市です。ここから、私は自分のチームを調整します。このチームはウクライナ全土に広がり、一部は海外にも広がっていますが、支援を続けています。人を連れ出している人もいれば、車を買ってドライバーを探している人もいます。私たちはハブとして機能し続けます。私たちはマリウポリにある物理的なハブでした。そして今では、私たちは人と人とをつなぐことができる、人としてのハブになっています。また、過去数年間にわたり私たちが構築してきた社会的資本は、私たちが今持っている最も重要なものです。

しかし、物理的なハブとしても復活しました。ザポリッジャのチームの努力により、『カリタス・マリウポリ』と協力して、避難民たちと協力する新しい『ハラブダ』が開かれました。他のプロジェクトも並行して組織されています。たとえば、4月21日、チームはFacebookページで、ドローンのモバイルワークショップの立ち上げを発表しました。」

本当にマリウポリに戻りたい…

ハリーナは、愛するものがたくさん残っている故郷に戻ることを心待ちにしています。

「何があってもマリウポリに戻りたいです。海に触れて、長い間好きではなかった工場さえ見たいと思っています。マリウポリの人たちによってそれらの工場が稼働してほしいと思っています。腎臓病の治療と餌を与える必要がある私の猫・コンスタンティンは、街にとどまりました。そして、子供の頃の写真のアーカイブを残した隠れた場所がいくつかあります。残っているもので最も重要なものはおそらく写真です。なぜなら、記憶は一時的な思考形態のレベルでしか残っていないからです。たとえば、ビデオがなかったら祖母の声を思い出せなくなるでしょう。または、私が5歳だった1994年の頃の母の様子もです。ですから、私にとって、これはおそらく最も重要なものなのです。しかし、私はすべてのものについて気にしません。もっと多くの人をそこから連れ出すことができれば、私の人生の一部であるすべての写真に別れを告げる準備ができています。

ロシアが死ぬまで、どこにいても安心できません。私のマリウポリはもうありません。廃墟となりましたが、それは重要なことではありません。重要なことは、人々が避難し続けるということです。

私のマリウポリは人と海です。海は私から奪われることはありません。それは戦争中でさえあります。私たちは人を連れ出します。

私のマリウポリは、街から歩いて病気の子供や祖父母だけでなく、動物たちも連れ出した人々です。彼らは爬虫類さえも救出しました。それぞれがヒーローです。私にとって、勝利の日は抱き合えないものの、少なくとも今は連絡の取れない人たちに電話をかける日です。これが最初です。そして第二には、私たちが力を蓄積し、すぐに私たちの都市と自分自身の中で私たちを再建し始める日です。」

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

カティアポリフチャク

ソフィヤ・パナシュク

企画,

インタビュアー,

プロデューサー:

クセニア・チクノバ

編集長:

イェウヘーニヤ・サポジニコヴァ

編集:

アナスタシヤ・フリコ

編集,

フォトグラファー:

フリスティナ・クラコウシカ

フォトグラファー:

ドミトロー・バルトシュ

写真編集,

ムービーカメラマン:

ユーリー・ステファニャク

映像編集:

リザ・リトヴィネンコ

監督:

ミコーラ・ノソーク

音響:

アナスタシヤ・クリモヴァ

グラフィックデザイナー:

マリアナ・ミキチュク

トランスクライバー:

ジアーナ・ストゥカン

ユリヤ・クプリヤンチク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

藤田 勝利

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