ロシアがウクライナに本格的に侵略したことで、ウクライナ人は自分の家系についてさらに詳しく調べ、自分の出自を理解するようになりました。ウクライナにルーツを持つ人々も同様で、2022年まで自分がロシア系ではなくウクライナ系であることにすら気づいていなかったかもしれません。
新しく知った親戚の情報だけでなく、家系を調べることで、さまざまな時代の歴史、文化、生活様式に関する興味深い情報が数多く明らかになり、自分自身のアイデンティティや民族のアイデンティティに対する理解を形成しています。
ウクライナにルーツを持つ世界的な著名人についてお伝えします。
多くの有名人が自分たちの祖先について熱心に学び、これに関するドキュメンタリーシリーズまで制作しています。例えば、イギリスのオスカー女優オリヴィア・コールマンは、自分の曾々々祖母のことを知るために、イギリスからインドまで航海しました。彼女に関するエピソードを読むと、約1世紀にわたるイギリスの植民地政策にもかかわらず、インドの資料がいかによく保存されているかを知ることができます。
ジャック・パランスと彼のウクライナのルーツ
1919年2月18日、ヴォロディーミル・パラフニュクはウクライナ移民の家庭に生まれ、俳優としてのキャリアをスタートさせると、彼はジャック・パランスとして活動していきました。オスカー賞、ゴールデングローブ賞、エミー賞を受賞した彼は、自分の出自に誇りを持っていました。ウクライナ語と歴史を知っていて、民謡を歌うのが好きで、ワシントンDCでのタラス・シェフチェンコのモニュメントの除幕式に参加しました。(1964年)
ウクライナは何度も訪れていて、キーウにも行っています。監督のイェウへン・デスラウとは、彼の映画でイヴァン・マゼーパ役を演じることについて話をしました。ジャック・パランスは、ウクライナの文化や歴史に関連するさまざまなプロジェクトを実施するクリエイティブ業界の代表者たちとの協力を確立するための慈善財団「Hollywood Trident Foundation」の理事長を務めていました。「Hollywood Trident Foundation」は、ウクライナ・ホロドモール記念財団とも緊密に連携し、この恐ろしい出来事の生存者にインタビューを行っています。
2004年4月、ロサンゼルスはロシア大統領の後援のもと、「Russian Nights Fests 」フェスティバルが開催されました。ハリウッドで行われたセレモニーでは、ロシア系アメリカ人アーティスト(俳優、演劇人、音楽家)にロシア連邦人民芸術家の称号が授与され、盛り上がりを見せました。
「私はウクライナ人であり、ロシア人ではない」とジャック・パランスは述べ、「…私はロシア映画やロシアとは何の関係もない」と述べて、その称号を拒否しました。その後、ジャック・パランスは、妻や「Hollywood Trident Foundation 」の会長であるピーター・ボリソウとともに、会場を後にしました。
この夜、ロシアから表彰されたダスティン・ホフマンの発言について、後にピーター・ボリソウがコメントしたのは興味深い点です。ポイントはホフマンが、ナチス・ドイツを打ち破ったことで「ロシアにあるキーウから来た」自分の祖父母を救ってくれたロシア国民に感謝したという点です:
-彼が自分の家族の歴史さえ知らないというのは悲劇的です。重要な事実に対する彼の無知は衝撃的です。ダスティン・ホフマンは、非常に不快で人種差別的な映画『72メートル』を上映した映画祭を支援することで、ウクライナ人ひいては自分自身を、無意識のうちに中傷にさらしているという事実があるのです。
ビル・エヴァンス
偉大なジャズピアニストであり作曲家であるビル・エヴァンスは、1929年にハリー・エヴァンスとメアリー・エヴァンス(出生名:マリヤ・ソロカ)の間にニュージャージー(アメリカ)で生まれました。ビルは、グラミー賞で31回ノミネート、7回受賞しており、歴史上最も影響力のあるジャズ・ミュージシャンの一人とされています。
ビルの母親は、両親がウクライナ語を話し、祖父のイヴァンはハリチナ地方出身のルシン人または「カルパチア人」を自称していたと書いています。祖母はビルにルシン語の読み方を教えようとしたが、母親はそれに反対したそうです。
このように、自分の祖先や国の文化から切り離された子どもたちは、自分の血筋が何であるかを知ることができない可能性があります。また、移住者が新天地で適応するためやロシアのプロパガンダに押されて、ウクライナの出自を否定するケースも少なくありません。ソ連が崩壊するまで、ウクライナが独立国であったことはほとんど知られておらず、ソ連が崩壊した後もロシアのプロパガンダと帝国主義が、ウクライナにルーツを持つ人々に対して誤った印象を与えてしまいました。
この問題には別の側面があります:自身の本当の出自を知らない人々は、操作されやすいのです。例えば、もともとウクライナ語圏にあるウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系の聖職者たちは、自分たちの祖先は何世紀にもわたってロシア語で祈ってきた、だからウクライナではなくロシアが彼らの精神的生活に実際は関係している、と信者に簡単に信じ込ませているのです。
ナタリー・ウッド
50年代から60年代にかけてナタリー・ウッドの名が世間を賑わせていた頃、彼女の本名がナターリヤ・ザハレンコであることを知る人はほとんどいませんでした。映画「ウエストサイド物語」や「グレートレース」に出演したことで、彼女は大人気のハリウッドスターとなりました。この女優は1938年、アメリカに移住したウクライナ人の家庭に生まれました。父親はウクライナ人のミコラ・ザハレンコです。
ナターリヤは、わずか4歳の時に映画「Happy land」で初めてカメオ出演を果たしました。その後、両親は彼女の姓であるザハレンコをより「高貴な」姓であるフルディン(Гурдін)に変更することにしました。
姓(まれに名)の自主的な「脱ウクライナ化」の歴史は、今に始まったことではありません。例えば、アメリカで登録する際、新たに移住してきたウクライナ人移民は、自然に同化しやすくするために、アメリカの名を選びました。しかし、この決断は、彼らがアメイジングに馴染むのに有効であったとしても、様々な理由で家族が連絡を取り合わなかったことを考えると、今の世代や将来の子孫が家族の関係を見つけるのを非常に難しくする可能性がありました(もしくはその可能性があります。)
リック・ダンコ
カナダ人のリック・ダンコは、60年代後半から70年代前半にかけて最も人気を博した伝説のロックバンド「The Band」で有名になりました。バンドでは、ベース、リズムギター、共同ボーカルとして活躍しました。リックの父方の祖父母はヨゼフ・ダンコとパラスケヴィア・ダンコです。両親はウクライナで生まれ、その後カナダに移住してきました。
多くのウクライナ系カナダ人が様々な分野で成功を収めています(カナダはウクライナ人のディアスポラが最も多い国の一つです。)しかし、その子孫の多くは自分の出自を公開しないので、世界的に有名な芸術家やスポーツ選手、科学者が同胞であることは、ウクライナ人にとって意外なことかもしれません。
1960年代半ば、「The Band 」はボブ・ディランのバンドとして認知され、1966年のコンサートツアーはディラン初のエレクトリック・コンサートとして知られるようになりました。1968年、彼らは独立したグループとしてデビューアルバム「Music From Big Pink」を発表した。このアルバムで、彼らは一気に人気を博しました。ボブ・ディラン自身はウクライナ系ユダヤ人であり、ディランの父方の祖父母アンナ・キルヒズとジフマン・ジマーマンは、20世紀初頭にロシア帝国でのポグロムのためオデーサから移住してきました。
「The Band」は、カントリー、ロック、フォーク、クラシック、R&B、ブルース、ソウルを組み合わせたサウンドを展開しました。代表曲は「The Weight」、「The Night They Drove Old Dixie Down」、「Up on Cripple Creek」です。音楽評論家のブルース・エダーは、彼らを「世界で最も人気があり、影響力のあるロックバンドの一つであり、彼らの音楽はBeatlesやRolling Stonesの音楽と同じくらい批評家に重要視されている」と評しています。「The Band 」は1989年にカナダ音楽の殿堂入りを果たし、1994年にはロックンロールの殿堂入りを果たしています。2004年、Rolling Stone誌は、「史上最も偉大な100人のアーティスト」のリストで、彼らを50位にランク付けしました。
トニー・レヴィン
トニー・レヴィンは、現代最高のベーシスト(Pink Floyd、King Crimson、Yes、ピーター・ガブリエル、デヴィッド・ボウイ、ポール・サイモン、ジョン・レノン、ルー・リード、トム・ウェイツと共演、様々なアーティストの500以上のアルバム制作に参加)ですが、ウクライナにルーツを持っています。2012年にキーウで行われたコンサート後におけるトニー・レヴィンとの個人的な会話では、キーウには観光で来て街を歩くことが多いと語っています。
以前、彼は自身のウェブサイトにウクライナを訪れた際のレポートを掲載しています:
-私の祖父母はベルディチウ(キーウのポリッシャ地方)出身ですが、その後オストロピリ(現在のポジッリャ地方にあるスタリー・オストロピリ村)という小さな町に移り、母はそこで生まれ、そこをオストロポリヤと呼んでいました。
ちなみに、トニー・レヴィンは、1576年にコステャンティン・オストロジキー公が街として設立したこの村に特別に足を運び、その後、弟のピートとともに、彼らの小さな故郷に捧げる歌を作りました。これは、外国人が自分の出自への興味と先祖への尊敬の念から、ウクライナの村にやってきて、村の(もちろんすべてウクライナ語で書かれている)お墓参りに行ったり、地元の人たちとコミュニケーションをしようとしたりして、自分たちの親族に関する情報を調べるという数少ないケースです。このようなケースは稀ですが、資料の保存やデジタル化、墓地の管理、外国人のための家系の調査を容易にするための他言語でのプラットフォームの構築など、ウクライナ人が民族の記憶を守るための多くの課題に包括的に取り組む必要があることを改めて証明しています。
歌手のMelanie、本名メラニー・ソフィカ(1947年生まれ)は、1970年代の有名なスターであり、Woodstockロックフェスティバルの象徴的存在であり、ボーカリスト、ギタリスト、作曲家、作詞家です。彼女は、カーネギーホール、メトロポリタン歌劇場、シドニーオペラハウスなど、最も有名なクラシック音楽のホールで演奏した最初のポップロック歌手として知られています。国連総会の前で歌った最初のポップアーティストでもあります。1971年から1972年にかけて、「Brand New Key」、The Rolling Stonesの「Ruby Tuesday」のカバーソング、「What Have They Done to My Song Ma」、1970年のヒット曲「Lay Down(Candles in the Rain)」で人気を集めた歌手です。
メラニー・アンナ・ソフィカは1947年2月3日、ニューヨークで移民の両親のもとに生まれました。父(ウクライナ人)はディスカウントストアチェーンのオーナーで、母(イタリア人)はジャズシンガーでした。夫でプロデューサーのピーター・シェケリックもウクライナにルーツを持つ人です。
「ウクライナ人のために歌いたい」と、彼女は1978年に述べています。「夫のピーター・シェケリックはウクライナ生まれで、ウクライナの歌を歌うのですが、素晴らしいんですよ」とも述べています。
マイケル・ボルトン、デイヴィッド・ドゥカヴニー、レニー・クラヴィッツ、ヴェラ・ファーミガ:ウクライナにルーツを持つ現代のスターたち
80年代のポップス界のスーパースター、マイケル・ボルトン(1953年生まれ)の本当の姓はボロティンです。彼の著書「The Soul of It All: My Music, My Life」にて以下のように述べています:
-私の声が家系の歴史から来るものだとしたら、おそらくキーウにいる私の祖先の一人は助祭だったのだろう。
ボルトンは、1980年代後半にポップロックバラードのシリーズで知られるようになりました。彼は7500万枚以上のレコードを売り上げ、Billboardチャートで8枚のアルバムがトップ10入りし、2枚のシングルがチャートで1位になっています。また、American Music Awards を6回、グラミー賞を2回受賞しています。
アメリカの俳優デイヴィッド・ドゥカヴニーの祖父(1960年生まれ)は、ベルディチウからの移民で、1918年にニューヨークで作家やジャーナリストとして活躍したモイシェ・ドゥホヴニーでした。彼の祖母はポーランドからの移民でした。尊厳の革命(ユーロ・マイダン革命)の際、デイヴィッド・ドゥカヴニーは自分がウクライナ人であることをツイートしています:
-私はロシア人だと思って育ったが、今になってようやく、ずっとウクライナ人だったことに気がついた。変わるのに遅すぎるということはない。
FBI捜査官フォックス・モルダーを演じた「X-ファイル」シリーズと、テレビシリーズ「カリフォルニケーション」がきっかけで彼は有名になりました。どちらの役でも彼はゴールデングローブ賞を受賞しました。
1964年生まれの歌手レニー・クラヴィッツは、最後にキーウを訪れた時(2008年)、「故郷に帰ってこれてよかった」と述べています。実は、レニーの祖父はキーウ出身なのです。ニューヨークに移り住んだウクライナ系のアシュケナジ(中世ドイツや東欧諸国に定住したユダヤ系移民の人々やその子孫)で、クラヴィッツという名字はウクライナ系の名字クラヴェッツィをアメリカ風にしたものです。
レニー自身、ウクライナとの関わりを繰り返し述べており、特にインタビューでは、祖父がキーウ出身であることを強調しています。そのため、彼はメディアの映らないところで何度もキーウを訪れ、ウクライナのユダヤ人の歴史を研究する研究者と会っていますが、これも彼のアイデンティティの一部だからです。
レニー・クラヴィッツは、アメリカのケーブルテレビチャンネルVH1の「最も偉大なハードロックアーティスト100人」で93位にランクインしました。2011年には芸術文化勲章を受章し、映画「ハンガー・ゲーム」シリーズに出演しました。クラヴィッツは、そのキャリアの中で、世界中で4千万枚以上のアルバムを販売しています。
アメリカの女優ヴェラ・ファーミガ(1973年生まれ)は、アメリカで生まれたにもかかわらず、6歳まで英語を話せなかったため、自らを「100パーセントのウクライナ人」と述べています。ニュージャージー州のウクライナ人学校に通い、シゾクリリ舞踊団に出演し、プラスト(ウクライナのスカウト組織)のメンバーでもありました。
本格的な侵略が始まって以来、ヴェラはウクライナの詩人の詩を朗読したり、コンサートで空襲警報の音を流してウクライナ人がどのような状況で生活しているのかアメリカ人の注意を喚起したり、兵器の提供を呼びかけたり、あらゆる方法でウクライナを支援しています。ウクライナへ訪問する予定もあるそうです。
ヴェラ・ファーミガの最も高い興行収入を得た作品で最も高い評価を受けた作品は、「Down to the Bone」(2004)、「クライシス・オブ・アメリカ」(2004)、「ディパーテッド」(2006)、「ジョシュア 悪を呼ぶ少年」(2007)、「縞模様のパジャマの少年」(2008)、「マイレージ、マイライフ」(2009)、「アナベル 死霊博物館」(2019)です。代表作「マイレージ、マイライフ」(2009年)では、アカデミー助演女優賞、ゴールデングローブ賞助演女優賞、BAFTA(イギリスのアカデミー賞に相当)助演女優賞、全米映画俳優組合賞にノミネートされました。監督デビュー作「ハイヤー・グラウンド」(2011年)では、ゴッサム・インディペンデント映画賞のオープンパーム賞を受賞しています。
移住したウクライナ系ユダヤ人の有名な末裔たち
ロシア帝国におけるユダヤ人に対するポグロムの影響(19世紀後半~20世紀初頭)により、アメリカに移住したウクライナ系ユダヤ人の子孫(その多くはオデーサ出身)が世界文化に最も大きく貢献したと言えるでしょう:ボブ・ディラン(音楽家 )、スティーヴン・スピルバーグ(映画監督)、デヴィッド・カッパーフィールド(プロマジシャン)、レナード・バーンスタイン(指揮者)、ジョージ・ガーシュイン(作曲家)、エイミー・ワインハウス(歌手)、シルヴェスター・スタローン(俳優)、ダスティン・ホフマン(俳優)、レナード・ニモイ(俳優)、リーヴ・シュレイバー(俳優)
ウクライナの多文化性や民族共同体の貢献は、ウクライナ人が体系的に理解し、集団的アイデンティティに統合し始めたばかりのテーマですが、その中には計り知れない数の家族のストーリーが含まれているのです。