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マリウポリの声とは、包囲されたマリウポリから避難することができた人たちのストーリーを聞くシリーズです。今回は、アゾフスタリ製鉄所の地下で2人の息子と数か月過ごしたアゾフ連隊の兵士の妻であるカーチャのストーリーです。

カーチャはマリウポリで生まれ、ずっとマリウポリに住んでいました。彼女と彼女の夫はそこで将来の計画を立て、どこにも引っ越すつもりはありませんでした。カーチャの夫は軍人なので、2月24日の数日前に家族が街を離れる準備を始めました。しかし、本格的な侵略が始まったとき、マリウポリから避難する時間がなく、息子たちと一緒にアゾフスタリ製鉄所に隠れました。5月1日、国連が組織した人道回廊を通って、ベジーメンネで占領者によって設置されたろ過キャンプを通過した後、カーチャはようやく比較的に安全な場所、つまりウクライナが支配する領土にたどり着きました。今日、カーチャの夫は、長い間マリウポリを防衛し、アゾフスタリ製鉄所でロシア軍に囲まれていたすべての軍人とともに捕らえられています。

— 私の夫の名前はサーシャです。彼と出逢ったのは17歳の時でした。それ以来、一目ぼれのように別れていません。マルクとレフ、子供が2人います。夫はマリウポリで私たちの未来を計画して、軍人として昇進したいと思っていました。私たちは車と将来の家のために貯金しようとしました。子供たちを良い大学に行かせたかったです。

すべてが悪くないように見えましたが、2014年になり、すべてが初めて完全に変わってしまいました。そして彼は、誰が私達の土地に侵略したのかを理解したとき「私はこれを認めない」と言いました。そして、軍に入隊することにしました。まず、国家親衛隊に参加し、そこで数年間勤務し、4年前にアゾフ連隊に転勤しました。

彼は軍事教育を受けておらず、すべては兵役中に学びました。数ヶ月家を離れ、時には8ヶ月家にいませんでした。そして今、彼はまるで兵士になるために生まれてきたかのようで、そのためのものが彼の血の中に流れているようです。

私はいつも大人と同じように子供たちと話し、彼らに現実をそのまま何も隠れずに説明しようとしてきました。「お父さんは軍人です」とそのまま言っていましたから、子どもたちにとって、夫は素晴らしい例です。

アゾフ連隊の兵士たちは準備をしていたと思います。そして彼らは、明日、それとも1年後か8年後、いつかそうなると知っていました。 彼らにとっては、家族のため、街のため、ウクライナのため、戦う理由がそれぞれありました。その上、アゾフ連隊の司令部はとても優れていて、誰も何をすべきか理解しています。夫は「何かが起こる。街から出てね。おばあちゃんと一緒に、なんとかして街から出て。」と言っていました。しかし、25日にすべてがどれほど大規模なものであるかを確かに伝えると言いました。

何か行動しないと、避難用バッグを準備しないといけない、というような話が始まりました。2月21日だったと思います。夫は「準備して」と言って、私は一番必要なものを探しに行きました。こんなときに、自分の価値観を見直してしてしまいます。何が大切であるか、何を置いておくべきか。私たちは経験豊富な観光客なので、バックパックを詰めて体重計に乗せ、子供たちのためにどれだけ持っていけるかを計算しました。そして2日で準備が整いました。

私にとって最もつらいことは、家に大切な指輪を忘れたことです。食器を洗っていたときに外しましたが、私達はとても急いで集まりましたから、その指輪は棚に置いたままでした。そして、子供の頃の写真が入ったアルバムも、母や祖母の写真も残ったままです。しかし、大容量のハードドライブはなんとか持って行きました。そのハードドライブには私たちの人生のすべての写真やビデオが保存されています。

夫は状況がどれほど大規模なものであるかわかると、おそらく避難できないだろうと言いました。彼が兵役に呼ばれたのは2月19日か2月20日でした。そして、2月24日の夜中には侵略が始まりました。私は非常に大きな爆発音に目が覚めました。約1時間後、サーシャは「荷物をまとめて、おばあちゃんのところに逃げて」と書きました。私たちのアパートは5階で、彼女の部屋は1階にあるからです。そして彼女は中心から離れているところに住んでいます。その日、私たちは荷物をまとめて祖母のところに行きました。

カテリーナの個人アーカイブからの写真

3月2日に電力網が遮断され、通信が途絶えました。3月4日、家が揺れている音と砲撃の音で目が覚めました。夕方、軍の人が来て「あなたの旦那さんに言われて来ました。準備してください。一緒に避難所に行きます。」と言われて連れていかれました。私たちは夜に「アゾフスタリ」に連れていかれ、ライトなしで運転しました。暗くて何も見えませんでした。到着すると、私たちは暗い部屋に連れていかれ、眠る場所を見せられました。それは製鉄所内の作業場の1つでした。私たちは3月10日まで、私たちの施設が激しい砲撃を受けるまでそこにとどまりました。それから、すぐに逃げて地下に隠れなければならないことがわかりました。3月9日に戦車に襲われ、女性1人が死亡、男性1人が負傷したとき、私たちは最悪の事態を経験しました。子供たちはそれを見ませんでしたが、打撲傷を負った男の子を見ました。私は子供たちにシーツをかぶせて、見ないように言いました。

翌日、砲撃が続きながらも、私たちはこの掩蔽壕に逃げました。工房に10人、地下に30人いました。最初の日、次男レフが目を覚まし「お母さん、家が壊れる夢を見た」または「お母さん、大丈夫、無事?」と泣いていました。そんな時、私は子供たちを抱きしめて、一緒に寝ようとしました。身震いしながらも表に出さないようにしていました。おばあちゃんが私たちにマットレス、枕、一種の毛皮のコートをくれたのは幸運で、おかげで横になることができました。他の人はそのようなものさえ持っていませんでした。彼らはベンチを組み立て、何かを作り、製鉄所でマットレスを探しました。地下内の温度は、2か月間一貫して14度を超えることはありませんでした。大きなタンクにかなりの量の水がありましたが、工業用水だったので悪臭を放っていました。ペットボトルの飲料水は炭酸入りでした。 最初はそれを飲みましたが、兵士たちは別の水を持ってきました。

私たちは3月10日に地下に行き、5月1日までそこにいました。攻撃の下で食事を作っていた男性たちは地下室に駆け込み、そこで火を起こして料理を作っていましたが、子供たちと私は地下で座って待っていました。光は数メートル先まで見えました。ドアまで10メートルだったので、しゃがみ込んでみたら、向こうに太陽があることがわかりました。

カテリーナの個人アーカイブからの写真

カテリーナの個人アーカイブからの写真

まず、シリアル、缶詰、冷蔵庫のすべてを地下に持ってきました。また、機会があったとき軍は私たちに人道支援を持ってきてくれていました。それは激しい砲撃が行われる前の最初の日でした。それから、すでに地下に移動したとき、私たちはすべての食べ物を持ち帰りました。それで、2週間、私たちはそこにあるものに頼って過ごしました。その後軍が来て、私たちに食べ物があるかどうか、何が必要かを尋ね、何かを持って来ようとしました。主にお粥、オートミール、シチュー、缶詰でした。これが主な食事でした。朝はお茶を飲むことができ、昼食にはいつもオートミールを食べ、夕方には少なくとも少しだけお肉を食べるのにシチューでお粥を作くることにしていました。

カテリーナの個人アーカイブからの写真

何が飛んでいるのかわかりました。「バン、バン、バン」、そして次の「バン、バン、バン」が聞こえたら、あれが「グラード」(122mm自走多連装ロケット砲)、つまり小さい「オサダ」とも呼んでいたものでした。もし「フルルルル」みたいな音だったら、それはロケットです。飛行機は何かと間違えることはありません。飛行機はとてもうるさいので、何かと混同してはいけないし、ミサイルを発射する音も聞こえきますが、それはとても怖ろしいものです。私たちは戦車と迫撃砲の音も知っています。 今は、時々、部屋の中で静かに座っています。そしてその時、気がつくと、電化製品の音が聞こえ始めていたのです。

発電機がそこに運ばれましたが、それらのための燃料が常にあるとは限りませんでした。そして、機会があったとき、男性たちは燃料を求めて製鉄所に駆け寄りました。燃料が持ち込まれたとき、私たちはそれを数時間起動し、電話を充電し、ライトをオンにしました。そのため、私たちは携帯電話のバッテリーを節約しました。たとえば、一度電源を入れて、時刻と曜日を確認したら、電源を切りました。電球が接続された車のバッテリーがありましたが、それは暗闇の中でとても小さな光でした。灯油ランプもあったのですが、1カ月で灯油が切れてしまいました。

カテリーナの個人アーカイブからの写真

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朝、男性たちがお茶のお湯を持って戻ってくるまで起きないようにしました。自分自身を良い状態に保とうとし、クリームを塗り、マニキュアをして何かに没頭している人たちもいれば、 ただ待っている人々もいて、何日もうわさ話をしていた人々もいました。それから昼食を食べ、片付け、座り続けます。特にやることもなく、夕方まで待って就寝です。

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トイレは普通のトイレでした。しかし、水はありませんでした。 まあ、少なくとも下水道であり、穴のものではありませんでした。食器や洗濯物を洗うとき、この水をためて、トイレで使っていました。 洗うために、男性たちに火で水を加熱するようにお願いしました。排水口のある小さな部屋で洗いましたが、とても寒かったので、急いで洗いました。何とかなりましたが、少なくとも週に1回は洗いました。

日々が一つのわからない記憶にならないように、日記を書いていました。ロシアの検問所を通過し、捜索されることがわかったとき、残念ながら、日記を燃やさなければなりませんでした。彼らと共有したくない情報がたくさんありましたから。

地下には約10人の子供たちがいて、一日中走り回り、紙とテープで銃や短機関銃を作り、ロシア人を倒すと叫んでいました。彼らはアゾフ兵の真似をしたり、後でインディアンの真似をしたりしていました。 私達にはおとぎ話の本があったので、毎日寝る前におとぎ話を読む習慣ができました。全部で10人の子供がいました。

カテリーナの個人アーカイブからの写真

私たちの軍人たちが来たときを除いて、地下でのすべての日々は同じでした。夫は最初の2週間は現れませんでしたが、その後、私たちのところに来ました。私はとても幸せでした! 彼は私たちがどこにいるのかわからなくて、私たちを探していたことが判明しました。そしてその日から、彼は私たちを訪ねようと、何かを持ってこようとしました。3日に1回来ることもあれば、2週間来ないこともありました。私が最後に彼に会ったのは4月29日でした。

4月26日、私たちは避難を要請するための世界への呼びかけビデオを録画しました。私たちのビデオは数十万ビューを集めました。そして数日後、軍人たちが私たちのところに来て、避難について教えてくれました。その瞬間から、私たちはスーツケースの上に座って、毎日ずっと待っていました。それから5月1日、1時にバスが到着し、順番に15人ずつ迎えられました。

カテリーナの個人アーカイブからの写真

地下から離れることは、テレポーテーションのように感じました。2か月前に入っていたとき、まだ雪が残っていましたが、今回出たら、周りが緑でした。私たちが去るとき、東部マイクロ地区という小さなエリアを見ました。 建物が焦げた黒い箱になり、いくつかの家には真ん中がありませんでした。つまり、ここが入り口で、内部にはスペースがあったはずですが、ありませんでした。穴だけが残っていました。私は自分の目を信じることができませんでした。そして、家全体が立っているなんてことはありませんでした。すべてを解体して再構築する必要があります。

5月1日、私たちの軍人たちが到着したとき、私たちは窓も座席もない故障したバスに乗り込みました。製鉄所から連れ出され、橋を渡って国連と赤十字の代表者たちが私たちを迎えました。彼らは私たちを次のバスまで案内してくれました。バスは自称ドネツク人民共和国のものだったと思います。武装したロシア兵がすでにそこにいました。彼らは私たちをベジーメンネ村に連れていきました。そこで私たちはろ過を受け、夜を過ごし、バスに乗り、ザポリッジャに連れていかれました。

検査中、ロシア軍人たちは全員を一人ずつテントに連れていき、そこで物事をチェックし、すべてを分類していました。彼らは非常に注意深く観察し、挑発的な質問をしました。彼らは私をそれほど注意深くチェックしませんでしたから、私は他の人より少しラッキーでした。また、私の携帯は取られ、パソコンに接続され、何かをインストールし、すべての写真ややり取りをチェックされました。 彼らが軍や警察とのつながりを見つけた場合、その人を疑うのです。タトゥーまでチェックしていたので、服を脱がなければなりませんでした。それから私たちは次のテントに行きました。多くのテーブルがあり、それぞれに同じものがありました。彼らは私たちがどこに住んでいて、どこに行くのか、私たちの計画について聞いて、書類を見て、指紋を取り、写真を撮りました。また、なぜマリウポリに戻りたくないのかと尋ねていました:「ザポリッジャで戦闘が行われていることを知っていますか? 戦争中ですよ。どこに行くんですか? そこでは誰もあなたを待っていません。 マリウポリに行って、今は大丈夫です。そこではすべてが回復しています。あなたにとってはそこが一番いいですよ。」といっていました。私は2時間ろ過を受けていましたが、もっと時間がかかる人々もいました。すべてを隠したので、彼らは何も見つけられませんでした。連隊と関わりのあるものも見つかりませんでした。なので、私にとっては簡単に終わりました。発見された人々には、すでに特定の圧力がかかっていました。彼らは、携帯電話から InstagramやTelegramに軍人たちに連絡したりメッセージを書いたり、電話をかけようとしたりしました。

翌日、ろ過キャンプから出ました。それは5月2日でした。ベルジャンシクに着いたのは夜の10時近くで、私たちはそこの学校に泊まりました。私たちはシンクで頭を洗うことができました。なぜなら、私たちはウクライナへ、その上大きな街に行ったからです。5月3日にはザポリッジャへ向かい始め、6日の夕方5時頃に到着しました。つまり、マリウポリからザポリッジャまでのこのルートは3日間かかりました。

ウクライナの検問所に国旗が掲げられているのを見たとき、拍手喝采し、「万歳」と叫び始めました。私たちは皆手を振って、子供たちはバスで嬉しくてジャンプしていました。「ついに、ついにここに私たちの味方の人々が!味方の人々が!」という感覚がありました。私はみんなにハグとキスをしたいほどとても嬉しくて「よく頑張ったね!」と言いたかったです。

私たちは、地下に何があったか、私たちの軍人たちの事情、そして私たちの街の状態について話そうとすることに同意しました。マリウポリで何が起きているかを世界に知らせる必要があると言いました。誰も知らないと思っていました。到着すると、たくさんの人が私たちを向かいに来てくれたのを見たら、衝撃を受けました!私たちを向かいに来てくれて、そして誰もがウクライナ人らしく私たちに食事を食べさせようとしていました。「そんなにたくさん食べられません。私に食べさせないでください、大丈夫です」と言っても、「食べて、食べて、食べて」と返されました。そして私たちはシェルターに連れていかれました。とてもきれいな女性たちがそこで働いていて、私たちに服を着せ、すべてを与えてくれました。そして心理学者は私たちを心配していました。私は自分を洗いたい、熱いシャワーを浴びたいと思っていました。そして、確かに、自然に行き、緑の葉を見たり、空気を吸ったりして、子供たちに外で遊んでほしいと思っていました。ここでは誰も私たちを待っていないと言われましたが、すべて嘘でした。ウクライナ人たちが私たちを待っていました。そしてここは、2ヶ月前とは全く違う世界のように見えます。人々は変わって、全然違うウクライナになったと思います。人々は団結して、私たちが誰であるか、なぜお互いを支え合うべきなのか、なぜ一緒にいるべきなのか、そしてウクライナ人であることは私たちの責任であると感じたようです。

現在、一時的にドニプロにいます。子供たちと一緒に公園を散歩するのが好きです。彼らを抱きしめるのが好きで、そうすると私達の周りに特別で、すべての問題からと全世界から守ってくれるオーラのような雰囲気になる感じがします。私にとって、特に子供たちにとって、毎日太陽の下にいることは重要です。確かに、家に帰りたいし、マリウポリに行きたいし、海に行きたいです。海が恋しくなるとは思いませんでした…

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夫が最後に連絡したのはほぼ1週間前、「アゾフスタリ」からウクライナ軍の兵士たちが連れていかれ始めた時でした(カテリーナとのインタビューは5月21日に記録されました。)彼は、私が心配しないように、誰もが一人ずつ連れ出され、しばらく連絡がないだろうと言いました。捕囚になるだろうと言いました。彼は「人生で全部やってみないと」といつもと同じように笑いながら元気な声で言いました。もし私が電話されて身代金を要求された場合は、信じてはいけない、お金を与えないように言われました。

子供たちは、自分のゲームですでにロシアに勝っています。彼らには好きな歌があります。その歌を地下でも歌っていて、私たちにとってヒットソングでした。モスカリ(ロシア人のこと)の死体についてです。そして、「ララ、ララ」という合唱があります。彼らは長い間お父さんのようになりたいと思っています。強くて頭が良く、いつも落ち着いていて元気なお父さんは彼らの模範です。「お父さんのような兵士になる」と言っています。

軍人の妻になるには、持久力、前向きな考え方、待って最善を信じることができることが必要です。夫が「すぐに戦争に行くつもり。行かなければならない」と言ったとき、彼の目には、行かなければ自分を許さないことが見えました。私はできる限り彼をサポートしなければなりませんでした。そして、私はそうしました。 常に、私たち一人一人が自分が必要と考えるものを行う権利を持っているという意見を持ってきました。自分の意見を表明する権利を持っていますが、禁止する権利はありません。

私たちが持っている最も価値のあるものは、私たちの命、子供たちの命です。 アパートでも、不動産でも、コンピューターでもありません。そのような些細なことは価値が殆どありません。 戦前、家では悲しく、どうしようもなく、機嫌が悪かったこもありました。そして今、私は「神様、私はただ生きているだけで毎日幸せになるでしょう。太陽が私を照らしています。それが私に必要なすべてです」というふうに思っています。

私にとって、マリウポリは希望の街です。 もちろん、マリウポリがまた私たちの街になったら(開放されるとき)、そこに行きます。もちろん、私たちはマリウポリの復興に参画しなければなりません。これに貢献したいと思います。 私は今、間違いなく私たちが勝つという揺るぎない信念に支えられています。

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

ヴラディスラヴァ・クリチカ

企画,

音響:

カティアポリフチャク

プロデューサー,

インタビュアー,

編集:

フリスティナ・クラコウシカ

ムービーカメラマン:

ロマン・クリムチャック

映像編集:

リザ・リトヴィネンコ

監督:

ミコーラ・ノソーク

音響:

アナスタシヤ・クリモヴァ

写真編集,

フォトグラファー:

ユーリー・ステファニャク

トランスクライバー:

ヴィターリー・クラウチェンコ

トランスクライバー:

フリスティナ・アルヒトカ

ジアーナ・ストゥカン

ヴィクトリヤ・ブドゥン

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

ユリアーナ・ロマニウ

翻訳編集:

藤田 勝利

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