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マリウポリの声とは、包囲されたマリウポリから避難することができた人たちのストーリーを聞くシリーズです。今回は、マリウポリ地域病院の手術室で働き、ロシアの占領者による街への砲撃により被害を受けたマリウポリの住民とウクライナ兵の命を救っていたオレクサンドルの物語です。

オレクサンドルは、麻酔科医として11年間働いています。その間、彼はずっとマリウポリに住んでいました。そこは彼が生まれた場所で、家も家族もあり、好きな仕事もあり、一生を過ごすつもりだった場所でした。ロシア軍による侵略開始後、彼は病院での勤務を開始し、2週間以上昼夜を問わず手術室に勤務していました。3月9日、産院がロシア軍により爆撃された影響で負傷した妊婦たちも、病院でオレクサンドルが治療した負傷者の中に含まれていました。

「2月24日、私たち夫婦はブコヴェリのリゾート地にいました。ニュースを見た後、私たちはすぐにマリウポリに戻ることにしました。私は病院で仕事をしており、残りの家族もそこにいました。25日の午後には、私たちはすでに家にいました。翌日から3月15日まで、ほぼ毎日無休で病院で仕事に従事しました。

一般的に、私の勤務日々は、私たちが治療した膨大な数の負傷者(民間人と軍人の両方)を除けば、多かれ少なかれ「正常」でした。病院には通常、ディーゼル発電機があるので、電気は通っていました。ですので、手術室ではすべての機器が稼動していました。当初直面した最大の問題は、おそらく気象条件だったと思います。窓ガラスはほとんど割れてしまっていて、段ボールとテープで覆っていました。そして、病院には暖房がまったくなく、とても寒かったのです。家族と連絡が取れず、安否確認ができないことに加え、救急隊への連絡にも支障をきたすようになりました。救急隊を呼ぶことができないため、救助隊は市内をセクターに分け、負傷者や入院が必要な人がいないかパトロールしていました。

病院での勤務中は、妻や娘と連絡が取れませんでした。3、4日に一度、砲撃が止むと、私は急いで家に戻っていました。病院からは1.5キロほどの距離です。そしてすぐに帰ってきて、家族を抱きしめてキスをして、また急いで帰っていくのでした。

病院には、家をなくした人たちが、避難所を求めてやってきていました。私たちは、最初のころにボランティアが持ってきていた水と食料を提供しました。最初は50~60人くらいでそれほど多くはありませんでした。しかし、その後砲撃が激しくなり日ごとに破壊された建物が増えた結果、避難所を求める人の数も増えていきました。

病院では、毎日20人以上の負傷者が手術を受けていました。多いときは30人の手術をしたこともありました。しかし、これがすべてではありません。それは、麻酔をかけた手術が必要な人たちのみについてです。それ以上の人数が、麻酔科医の手を借りずに、病院の受付や小さな手術室で治療を受けていました。

当時、この病院には、外科医、外傷医、婦人科医、泌尿器科医、放射線科医、検査技師などが大勢働いていました。医療関係者は全部で70〜80人くらいだったと思います。戦争が始まっているのだから、人を助けなければならないのは、みんな分かっていました。それが何よりも大事なことでした。自分たちがやらなければ、誰も必要な医療を提供してくれないのだ、と。

最も衝撃的だったのは、産科病院への砲撃でした。怪我をした妊婦が何人か運ばれてきました。その中には、各メディアに写真が掲載された女性もいました。残念ながら、彼女は子供と一緒に亡くなりました。私たちは、懸命に彼女を助けようとしました。骨盤はひどく骨折し、足は切断され、下腹部には傷がありました。私は麻酔を入れ、外科医は帝王切開を試みました。プロトコルでは、子どもを救う試みが先に行われなければならないのですが、帝王切開が行われて子どもは生きる気配を見せなくなったのです。入院から死亡宣告まで、2〜3時間しか経っていませんでした。残念なことに、その女性の名前はわかりません。彼女の状態は非常に深刻でした。家族も友人もいません。だから、「35歳くらいの身元不明の女性」ということで亡くなりました。

もう一つ、こんな話もありました。70歳代の女性の話です。チェレムシュキ地区で砲撃を受け、下肢に外傷を負いました。凍えるような寒さの中、数キロ這って公道までたどり着きました。そこで夜中にウクライナ軍に発見され、当院に運ばれてきました。彼女は全身ずぶ濡れで、寒さに震えていました。負傷した部分は救えず、切断せざるを得ませんでした。その女性は一命を取り留めました。しかし、彼女は自分の脚と家を失いました。

3月12日、私たちの病院はロシア軍に占領されました。その時、私は手術室である患者さんの帝王切開を行っていました。ある時、同僚が部屋に入ってきて、ロシア軍の「訪問」について知りました。職員は全員壁に立たされ、服を脱がせられ、タトゥーや、肩に典型的なアザのようなライフルや銃を所持していた跡がないか調べられました。それ以来、3月15日まで、私はいわば人質にされていたようなものでした。毎日、私たちはロシア人に病院から家に帰ってもいいかと尋ねていました。彼らの回答はいつも『行ってもいいが帰りに撃たれないという保証はない』というものでした。

その間、ロシア軍は病院の敷地内に配置された戦車や装甲車から住宅を砲撃していました。なぜそんなことをするのかと聞くと、「ウクライナ軍が隠れている可能性があるから、破壊しているのだ」という答えが返ってきました。病院の敷地に隠れていれば、ウクライナ軍が応戦しないことを知っていたから、病院を隠れ蓑にしていただけなのです。3月13日以降、ロシア軍は地下や破壊した建物の下から人々を強制的に連れ出し、全員を病院に連れてきました。8階建ての当院は、どの階も一般市民でいっぱいで、その多くが負傷していました。その人たちが「どうしてこんなことをするんだ」とロシア兵に聞くと、彼らは教科書通りの答えをしていました。「我々は、あなた方をナチスから解放しているのだ」と。

私たちの病院にいたロシア軍(日中は50~60人くらい、夜には200~300人を下らない人数)のうち、正規軍は10~15%くらいで、残りはプロでない若者や、その逆の老人がほとんどだったと思います。その中の一人である19歳の若者と話をすることができました。彼はドネツク近郊の小さな町から来ていました。食料品を買いに行ったら、軍の車が停まって「徴兵」されたそうです。その後、彼は制服とライフルを支給され「マリウポリに行け」と命令されました。彼は病院の病棟の一つで見張り番をするよう命じられました。もう一人は自称ドネツク人民共和国の老人で、彼もまたドネツク近郊の小さな場所の出身でした。彼もまた、ドネツク近郊の小さな町から来た配管工でした。彼も同じく、軍のバンに押し込まれ、制服と銃を渡され、前線に送られただけでした。

3月15日の朝、私は病院に避難してきた子どもたちを診察していました。その時、他の医師と私は、避難することを決意しました。最初の数日間は、すでに述べたように、毎日20~30件の手術を行っていましたが、3月12日からは、1日に3~5件、多くても7件の手術しか行えなくなったのです。それで、医療のプロである私たちがここに留まる意味はもうないと悟ったのです。そして、ロシア軍に脅かされながらも、どんなことがあっても逃げようと決心しました。その日の午前11時か正午頃、私たちは水と食料を積んだ輸送車が病院に到着するのを待ちました。この時間帯は、多くの市民が水や食料を手に入れようと走り出すので、いつも何かと騒がしくなりました。その時、私たちは病院を出て、急いで家に帰りました。私たちは7人でした。二手に分かれました。まず、2人の医師が外に出ました。そして、そのうちの一人の母親と、病院のボランティアをしている弟が続きました。15分から20分ほどで、私のグループも続き、私は脳外科医と看護婦と一緒でした。途中、庭の埋葬地や、「Z」と書かれた戦車が焼け落ちているのを見ました。

3月17日の朝、マリウポリを離れる前に、私は父を訪ねることにしました。父は市内の別の場所に住んでいました。父の家には、父のパートナーや妹とその家族も滞在していました。その途中、私の車はロシア兵に銃撃されました。ボンネットには弾丸の跡が残っています。私は父の家に行きましたが、残念ながら、そこには父はいませんでした。彼は病院にいました。父は慢性的に一日おきに透析を受けなければならない患者でした。その1週間後、父は亡くなりました。病院で透析が受けられなくなったためです。

ザポリッジャに向けて出発しました。マリウポリから出るときに、長い車列がありました。私たちはそこで1時間ほど待ちました。ロシア兵がパスポート、車の登録書類、持ち物を確認していました。しかしそれは、かなり表面的に、と言うべきものでした。というのも、検問所には大勢のメディアが来ていて、みんな撮影していたからです。だから、カメラの前ではみんな行儀よくしていました。さまざまなメディアのジャーナリストがいました。ドイチェ・ヴェレ(Deutsche Welle)の代表もいました。ロシアメディアの特派員もいました。ロシアメディアの特派員は、前面に「Press」の文字を付け、袖章(ロシア語のもの、自称ドネツク人民共和国のものをつけているひともいた)を付けていました。

途中の検問所で、兵士が「何を持っているんだ?」と訊きました。私は「石鹸です」と答えました。そしたら、それをよこせと言われました。だから、石鹸とシャンプーを全部渡して、先に進みました。彼らは携帯電話をチェックしませんでした。その時はラッキーでした。中身はクリアにしておいたので、安心してください。私の写真、チャットメッセージ、すべてです。私たちは3台のグループで運転していました。1台目には私と家族が乗っていました。2台目には、私の同僚である神経外科医とその妻、そしてもう一人の医師と子供たち、病理医が乗っていました。3台目には、彼の妻の両親たちが乗っていた。私たちは、医療関係者だから追い返されるかもしれないと、とても心配しました。それでも私たちは、もし聞かれたら、自分たちが何者であるかを率直に答えることにしました。嘘をつくとどうなるか、みんな知っているからです。嘘がばれたら、もっとひどいことになるでしょう。

私の両親は二人とも医者で、母は総合診療医、父は麻酔科医でした。だから、子どもの頃から医学の道に進むしかないと思っていました。2009年に大学を卒業し、その後2年間インターンをして、2011年から麻酔科医の資格を取りました。つまり、この仕事に就いて11年目になります。その間、ずっと故郷のマリウポリに住み、仕事をしてきました。妻も私もこの街が大好きで、他の土地に移り住むことなど考えたこともありませんでした。私はここで生まれ、妻も、そして私たちの子どももここで生まれた。私たちの人生は、すべてマリウポリにあったのです。」

ザポリッジャにしばらく滞在した後、オレクサンドル一家はさらに西のリヴィウに移りました。しかし、絶え間ない空襲によるストレスと恐怖のため、さらに遠くへ引っ越すことにしました。一家はまずポーランドに、その後ドイツに引っ越しました。オレクサンドルは、健康状態や脊椎の問題から兵役に就くことができません。彼は今、海外で家族の面倒を見ています。

コンテンツ作成スタッフ

プロジェクト企画:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

クセニア・チクノバ

企画,

音響:

カティアポリフチャク

インタビュアー,

編集:

フリスティナ・クラコウシカ

校正:

オリハ・シチェルバク

トランスクライバー:

ローマ・アゼニュク

オレクサンドル・ クカルチューク

トランスクライバー:

アナスタシヤ・シェリコヴァ

ユリヤ・クプリヤンチク

グラフィックデザイナー:

マリアナ・ミキチュク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

藤田 勝利