Share this...
Facebook
Twitter

オストロフ・アカデミー大学は、ソ連式教育システムを継承するのではなく、より昔のウクライナ教育の伝統に基づいた教育を復活したウクライナの教育機関の成功例である。オストロフ・アカデミー大学は1576年に創設されたが、オストロジキー公とその息子たちの死後、1636年に荒廃した。ソ連時代、オストロフ市にあった精神病院が体制に異議を唱える学者や知識人の拘置所として使われたこと、そのオストロフ精神病院がソビエトの権力の象徴であったことから、市の名前はよく知られていた。しかし、ウクライナの独立に伴い、大学が復活すると、オストロフ市の全体のイメージも回復し始めた。

ヴォリーニ地方に位置するオストロフ市は、公家の時代から良く知られていた。その時代の記録は、現在もいくつかの建物に保存されている。ルーツィク門とオストロジキー一族の城は博物館になっているし、タタール塔の遺跡は住宅地に建っている。

1994年以降、オストロフ・アカデミー大学に新入生が訪れると、オストロフ市は新たな人生を始めることとなった。その頃、都市の人口は初めて1万人を超えた。当初は、イーホル・パシチニク氏以外、ここに教育機関を復活させるというアイデアを信じる人はほとんどいなかった。しかし、今日では、オストロフ・アカデミー大学は、独特な教育アプローチを持つ大学として知られ、オストロフ市の名を国内外に知らしめている。

オストロフ

オストロフの現代的なアカデミーは、ウクライナの最新の大学の一つと見なされているが、同時に、この大学は16世紀に設立されており、東ヨーロッパにおける最初の大学でもある。当時、大学はオストロフ・スラヴ・ギリシャ・ラテン・アカデミーと呼ばれていた。

オストロフ市が文化的・教育的に発展したのはヴァシリ=コスチャンティン・オストロジキー公の治世時だった。オストロジキー公は自分の住居をドゥブノからオストロフに移し、1576年に教育機関を設立し、アカデミー大学の創設を開始した。その1年前、オストロジキー公はオストロフに印刷所を設立し、そこで当時の最も優れた印刷業者のイヴァン・フェドロヴィチ氏を招待した。ヴァシリ=コスチャンティン氏は、当時最高の科学者、神学者、印刷業者、イコン画家のコミュニティを作り、彼らに辞書、文法書、ギリシャやヨーロッパの神学文学、古代図書を再版をし、最高の図書館を利用できるようににした。

それにより、アカデミー大学では、ビザンチン文化と西ヨーロッパ文化の融合という、前例のない現象が生み出された。この融合が可能になったのは、西ヨーロッパから文法、修辞学、弁証法、数論幾何学、音楽、天文学という7つの基礎科学を学べる教育制度を受け入れたことと、この地に哲学、神学、医学などの高等学問や、スラヴ語、ポーランド語、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語の5つの言語を学べる環境があったおかげである。

市名
ウクライナ語では、この都市をオストリフとすべきという考えもある。

ヴァシリ=コスチャンティン・オストロジキーは軍の司令官として86回の戦闘に勝利している。その戦いの大半はタタール人との戦いであり、タタール人の中央ヨーロッパへの進出を防いだことから、西洋文化の保存の観点からは、その勝利は、歴史的に大きな重要性を持つとされる。

「ルーシの無冠の王」としても知られるオストロジキー公は、リトアニア公国の貴族であり、赤の蝋(ろう)で封をする権利を持っていた共和国の元老院議員だった(当時、その権利を持っていたのはポーランドの王と特別な功績の大物だけであった)。彼は、その後、オストロフでの活躍で、後にウクライナ・ルネッサンスの創始者と呼ばれるようになる。

オストロジキーは正教会の発展に力を入れたが、同時にカトリック神学者の作品を使用し、コミュニティの発展のためにふさわしい教育環境を作り出した。オストロジキーは、最初の科学教育機関であったオストロフ学校に必要な資金源を確立することを優先し、近隣の村から資金を募った。また、公の姪であるハリシカも、自身の遺書に「オストロフの病院とアカデミー、スティル川のルーツィク近くの救世主修道院およびドロヒニャ村にリトアニア通貨で6000を寄付するように…」と書き、多額の寄付を集めたのだった。

このような支援のおかげでオストロフ市は、勢いよく発展していった。1578年には、ウクライナで最初のギリシャ語・ルーシ語・教会スラヴ語の教科書がオストロフで出版された。その後、アルファベット書と新約聖書、そして、ウクライナで最初のアルファベット順の主題索引もオストロフで出版された。オストロフで出版されたウクライナの初版図書数はとりわけ多いが、その中でも、オストロフ聖書は主要な成果とみなされている。その聖書は、1581年に出版され、教会スラヴ語の旧約聖書と新約聖書76冊全てを含む最初の完全な正統正典となった。

寝室の中に井戸

当時栄えていたアカデミー大学の敷地は残念ながら残っていない。しかし、現在、大学は非常に面白い歴史を持つ建物の中にある。施設の最も古い建物は修道院である。建物はバロック様式で建てられたものだが、建物を機能的にするためにすべての装飾が取り除かれている。この敷地は、1750年にヤヌシュ・サングシュコ公によってカプチン修道士に寄贈され、1778年にカトリック教会となった。

その頃、修道院に、オストロフの地下空間と繋がる地下室と地下通路が修築された。僧侶たちは、そこを住居とし、また伝統的に信者を埋葬するための空間としても使用していた。

Share this...
Facebook
Twitter
Share this...
Facebook
Twitter
Share this...
Facebook
Twitter

同時に、僧侶が台所として使っていた部屋の真ん中には、いつでもきれいな水を取れるように十分な深さの井戸が掘られれていた。僧侶たちは薬を作り、無料の昼食を配給していた。そして、1832年11月、ポーランド人の蜂起(ポーランド・ロシア戦争)が終わると、ロシア当局は僧侶たちに修道院を去ることを強制した。身支度に1時間しか与えられなかったことを示す資料があり、薬や本など、大切なものを全てを持ち出すには時間が足りなかったとされる。

19世紀には、この建物は教師を育成する女子大学として使用されていた。アントニーナ・ブルドヴァはこの機関を設立し、父親のドミトロー・ブルドウ伯爵から名前を付けた。大学は、1865年から1922年までその父親の名前で運営されていた。オストロフ高校は、開校のときにオストロフ聖書について書かれた作品で有名になり、9歳から16歳の女の子のための女性正教会を設立することを決定した。そして、トリニティ教会は聖キリロ=メトディウス教会となった。

Share this...
Facebook
Twitter
Share this...
Facebook
Twitter
Share this...
Facebook
Twitter

それから、この敷地にはポーランドの教育施設ができ、カプチン修道士が戻ってくる時期もあった。戦後は、倉庫や各種教育機関になり、そして1970年代から1980年代には、潜在的な結核の子供たちのための寄宿学校となっていた。当時、その学校にはすでに塞がれ忘れられた井戸のある寝室があり、そこは湿度が高く、寒く、床下から恐ろしい音が聞こえることから「呪われた寝室」と呼ばれていた。

1990年代になって、ようやくその部屋がアカデミー大学に引き渡されたとき、古い床を取り除く作業が始められた。大工が金槌が床板の隙間に落とした時、底にぶつかる音が聞こえるまでしばらく時間がかかったことに気が付いた。それにより、その井戸の存在が再発見され、改修され、当時の状態が復元されることになった。現在、その部屋はオストロフ・アカデミー博物館の展示ホールとなっている。

新しいアカデミー大学

イーホル・パシチニク学長は、オストロフ・アカデミー大学の設立に深く関わった人物であり、大学の復活について多くのことを知っている。

「私がここに到着した時は、ここは完全に廃墟でした。何もありませんでした。教師どころの話ではなく、教卓も椅子も本も教室もありませんでした。」

1990年代初頭、彼はウクライナ西部で博士の学位をもつ唯一の教授で、より大きな都市に引っ越すことを計画していた。しかし、当時の副首相ミコラ・ジュリンシキーとキーウ・モヒラ・アカデミー大学の学長のヴャチェスラウ・ヴリュホヴェツィキーとの会談により、パシチニクの計画と展望は変わった。

彼らはイーホル・パシチニク氏にオストロフとアカデミー大学の歴史、君主と出版事業について語った。当時パシチニク氏は、それらについて何も知らなかった。ソ連時代に、オストロジキー家と昔のオストロフ・アカデミー大学についての記述は抹消されており、オストロフ市は大規模な精神病院のある地区としてしか知られていなかったからだ。

「オストロフ市が国を代表する都だったこともありましたが、その頃はもう、神に見捨てられた町と呼ばれていました。そこにアカデミー大学を復活させることは、突拍子もないアイディアだったと思います。当然ながら、私は逃げ出したい気持ちでした。私の友人達のオストロフのイメージは、大きな精神病院がある町です。彼らが、大学の復活に力を入れる私を見て、精神病院の患者になるのだろうと冗談を言ったほどです。」

しかし、オストロフ・アカデミー大学は歴史的な遺産を得ることになる。大学は、今日も教育機関の発展に貢献している。学長は次のように述べる。

「私たちの後ろには、輝かしい歴史があります。私たちは先祖たちがしてきたことより劣ったことはしてはならないと思っています。」

そして、パシチニク学長は、これまでウクライナのどの大学にもない、新しい大学コンセプトを作った。彼は、オストロフ市の過去の栄光や、首都のキーウ(キエフ)市などウクライナ全土から学生が集まるような大学にしたいと語った。

「インタービューが終わって、テレビ局から出たら、自分の話したことを実感できないような気持ちになりました。キーウどころか、現地の学生すら集められないのではないだろうか、と。しかし、今では、昨年だけでもキーウのトップの高校から15人の優秀表彰学生が私たちの大学へ入学しています。つまり、そのとき私が言ったことは、すべて実現できたのです。

アカデミー大学は慈善活動家と大学を支援した人のおかげで成功したのです。彼らの名前は、学術図書館の入り口の特別なプレートに記されています。彼らの多くはウクライナ人ディアスポラ(ウクライナ系アメリカ人などの外国の住民)や起業家です。 彼らは、ウクライナの教育のレベルが向上すると信じ、莫大な金額を寄付しました。」

最初、ここには本は一冊もなかった。 それが現在は、50万冊の書籍と最高のオンライン図書館、そして歴史的な価値のある本の蔵書がある。

「私たちの大学には、ウクライナで最初に出版された本の唯一の原本である『アポストル』という本があります。ある富豪が、この本が欲しがり、フレシチャーティク通り(キーウの目抜き通り)にある2LDKのマンションとこの本を交換できないかと言いました。 フレシチャーティクの2LDKマンションがいくらするかご存じでしょうか? なお、その本をオストロフ・アカデミーの図書館に寄贈したのは、決して裕福な人ではありませんでした。」

2000年には、オストロフ・アカデミー大学は国立大学のステータスを得た。

1993年には、オストロフ・アカデミーを復活させる方法についての議論が閣僚レベルで行われている。同議論には、キーウ・モヒラ・アカデミー大学学長と地方議会議長、様々な役人、大統領までがこの議論に参加した。その結果、1994年12月、最初の学生100人が同アカデミーで勉強を始めた。 次の2年間では、レオニード・クチマ(当時)ウクライナ大統領がオストロフ・アカデミーを大学とする法令に署名。

大学は成長しており、新しい学部や専門分野が現れている。現時点で学生の数は約5000人となっており、大学は安定して成長している。

大学は、ヨーロッパのいくつかの有名な大学と交流しており、大学連合を形成することができている。

今日現在、イーホル・パシチニク氏は、大学を一から作ることは、大きなチャレンジではあったものの、オストロフ・アカデミー大学を復元できたことは非常に貴重な体験だと考えている。

「リヴィウから来た建築研究所のトップの人達は、ブルドーザーでその敷地を平らにする方が良い、と結論付けました。専門家の意見では、理論的にも実際的にも、ここに復元できるものは何もなかったのです。別の方法を考える人もいませんでした。敷地には屋根もありませんでした。教会には、亀裂が140箇所にあり、カビが生え、その建物を改修できるとは誰も想像できませんでした。

パシチニク学長は、小さな町でも大学を作ることはできると信じていた。しかも、ウクライナの大学ランキングではなく、世界の大学ランキングに入るような大学です。

「こうして、オストロフ・アカデミー大学が不死鳥のように復活したのです!」

オストロフ・アカデミー大学は他の大学とは大きく異なるが、学長は大学のことだけではなく、いろいろな分野について夢を抱いている。

「今私は、若者の将来の進路に一番関心を持っています。若者が国外に逃げ出すことなく、ウクライナに残るようにしたい。あるいは、たとえ国外に行ったとしても、自分の専門分野で働けるようになることを望んでいます。

アカデミー大学を卒業した人は、10年以上ウクライナ国内外の様々な重要なポストで働いている。

「ルクセンブルクの主任監査人はオストロフ・アカデミー大学の出身です。サーシャ・タラベラというオストロフ・アカデミー大学の卒業生は、フォーブス誌によると、世界で最も有名なエコノミストのトップ5に入っています。彼はロンドンで仕事を得ていますが、ウクライナのために働いています。

しかし、パシチニク先生は卒業者を国外へ送り出すことを目指しているわけではない。

「私の夢は、アカデミー大学の卒業者の少なくとも70%がどこへも行かず、ウクライナで働き続け、理想の国創りをすることです。

アカデミーの教員は、知識を教えるだけでなく、ウクライナの知識人の育成に取り組んでいる。ウクライナが、今最も必要としているのは、社会をまとめるリーダーを育成することだと信じているからだ。 知識を得るとともに道徳的な価値観を学ぶことが重視されている。賄賂を渡したことのない学生は、将来賄賂を受け取ることはない。彼ら自身だけではなく、職場や周りにいる人々の間にも賄賂のないコミュニティが作られる。

「なぜなら、16世紀のオストロフ・アカデミー大学がそのように活動していたからです。今のウクライナは、当時と同じような状況にあり、私たちのアカデミー大学も、当時と同じ使命を果たすことが求められています。」

パシチニク氏にとっては、教育の過程だけではなく、学生の個性を形成することが重要である。彼は、多くの人はが首都キーウの大学に入学すれば、良い仕事を得られるチャンスが増えるというステレオタイプを持っているとしつつ、こう述べる。

「しかし、キーウなら、必ず良い教育が得られるとはいえないのです。」

開かれた社会 開かれた教育

オストロフ・アカデミー国立大学は、ウクライナの地方の小さな町で作られ、成功した高等教育機関の唯一の例である。小さな町にこそ、学生や教師が学術的で創造的な活動をするための空間がより存在する、というアメリカのアプローチに沿って作られたものである。パシチニク学長は、大学は大都会から離れた地方に建設されることを利点と考えている。キーウのような都市が飽和する中、地方の大学では、新鮮な息吹を受け取りながら、歴史的背景に思いをはせることができる。

「例えば、オストロフ市は、荒廃した町で、何もありませんでした。大学のおかげでオストロフ市が復活したのです!」

大学の関係者は、開かれた教室が開かれた社会を作ると信じており、大学の教室のドアには透明なガラスがはめてあり、誰でも教室を覗き、授業を見学することができるようになっている。

一部の教室は、テーマに沿ったデザインで作られており、芸術的要素が組み込まれている。例えば、ある教室には、絵画が飾られており、また他の教室にはアンティークのヴィシヴァンカ(ウクライナの刺繍入り民芸シャツ)が展示されている。また、アカデミー大学では、音楽が必須科目であることから、一部の教室では、学期中にピアノの生演奏が行われる。学長はクラシック音楽の基礎を学ぶことの重要性をを強調する。

「人々にはクラシックを学ぶ機会がありません。学校でも、幼稚園でも、大学でもその機会がないのです。 彼らはクラシックとは何かを理解していません。しかし、クラシックはあらゆる道徳的、世界観的価値を形成するものです。」

学長には、オペラ歌手とピアニストの娘がいるため、音楽に関する彼の熱意は自然なものだが、学生の中には、最初は彼の言葉に少し疑問を持つ者もいる。他方で、学生自身が『ユーリー・プリスカの一週間』は絶対見た方が良いと言ったりすることもある。学生は、毎日ただ勉強だけをしているのではなく、音楽を楽しんだり、ワルシャワ大学教授のジョークを楽しんだりして学生生活を過ごしている。

このような芸術的、音楽的な学生生活の例は、この大学が教育プログラムだけでなく、学生の自己啓発を重視していることを示している。現在、ウクライナでは、汚職の問題が騒がれているがオストロフ・アカデミー大学の教職員は汚職問題に厳格に取り組んでいる。アカデミーでは、反賄賂教育を実施している。賄賂を与えたり受け取ったりしないよう教えられた学生は、将来自分の周りに同じ価値観を持つ仲間を集めると信じられている。

イーホル・パシチニク氏は、アカデミー大学にこのような環境をどのように作ったかにつき、次のように説明した。

「簡単なことです。自分が(賄賂を)受け取らなければ良いのです。ご存知でしょうか、初歩的な反汚職、反賄賂方策というのは、上司が賄賂を受け取らないことなのです。そうすれば、他の人も賄賂を受け取らないように努力し出します。私はそう確信しています。」

パシチニク学長は、オストロフ・アカデミー大学では将来のリーダーと知識人が学んでおり、彼らが地方レベルからウクライナを築いていくのだと信じており、夢の国には賄賂があっては始められないと思っている。

オストロフ・アカデミー大学の学生の日常生活はウクライナの伝統と習慣に囲まれている。「ガウディアムス」というアカデミーの合唱団は、大学のあらゆる行事や式に出演する。毎日講義の前に、大学にある教会で、中庭まで聞こえる礼拝に出ることができる。そして、どこの大学にもある「ミスキャンパス」の代わりに、アカデミーの創設者の一人「ハルシュカ」という女性にちなみ、伝統美を競う「ハルシュカ」コンテストが毎年開かれる。大学がウクライナにおける様々な記録を8回も出しているのは、おそらくこのようなアプローチのおかげだろう。「詩のマラソン」記録もある。2014年3月に開催されたタラス・シェウチェンコ(ウクライナで最も有名な詩人)の作品「コブザール」を連続456時間読み続けたことで、ギネスブックにも記録が載っている記録。

パシチニク学長は、これらの素晴らしい成果は全てチームワークのおかげだと考えている。1990年代、彼が大学の教職員を募集した時には、世界的基準にふさわしい大学作りのために働くことを怖れない若者を募った。ビジネスレベルでの英語運用能力、国外インターンシップへの参加願望、一定レベルのスポーツ経験、教授法の知識、そして、若さ、といった非常に厳しい選考基準だったという。そして、当時は教職員のその若さのせいで他大学の学長にからかわれたという。

「彼らは、私が子供を採用したと笑い、『一体それはどんな大学なのだ、お笑い草だ』などと言いました。しかし、その若手の研究者が論文を出し、博士になり、今では国際的専門家となり、新しい教育技術を身に付け、それぞれが独自の授業を持っているのです。」

今、ウクライナの大学の研究者の多くは定年を迎えつつあるため、このような若いチームは羨望の的となっている。オストロフの学部長や副学長の平均年齢はかなり若い。

「教員は全て若者です。私自身の年齢が平均年齢を上げていますが、平均は34歳で、イエス・キリストの年齢とほとんど変わらない、創造する年齢なのです!」

1994年、最初の教職員が大学に採用されたとき、彼らは「独立」という単語を聞くと、目を輝かせていまた。国から逃げようとせず、精一杯国に奉仕することを望んだ人たちなのです。それが印象に残っていますし、現在でも、大学の教職員チームは、その気持ちを共有しています。

私たちは伝統に基づいて大学を築いてきました。私たちは一つのチームであり、物事に一丸となって取り組むことのできるチームです。教職員の給料が安いことは、本当に申し訳なく思っています。 それでも彼らは無私無欲に働いています。私は、彼らを誇りに思っています。」

学長は、そのような教師たちのの力により、オストロフ・アカデミー大学が復活し、ウクライナ教育史上の遺産を再生するという奇跡が起こったのだという。パシチニク学長は、2009年にウクライナ英雄の称号を獲得している。

「私が英雄なわけではないのです。オストロフ・アカデミー大学を復活させたのは私ではなく、私の同僚たちです。すばらしいのは彼らです。そして、ここの学生たちも同様に優秀です。彼らの中の10%は普通の人生を送ることになるかもしれません。でも、残りの90%の学生たちは、高い目標を目指して生きていくことでしょう。

コンテンツ作成スタッフ

プロジェクト企画:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

ソフィヤ・アンジェリューク

編集:

イェウヘーニヤ・サポジニコヴァ

プロデューサー:

オリハ・ショル

フォトグラファー:

オレクサンドル・マヨロウ

フォトグラファー,

カメラマン:

パウロ・パシュコー

カメラマン:

オレフ・ソロフーブ

映像編集:

マリヤ・テレーブス

監督:

ミコーラ・ノソーク

脚本:

カリーナ・ピリューヒナ

写真編集:

オレクサンドル・ホメンコ

トランスクライバー:

マリーナ・リャビーキナ

専門家:

アンドリー・ブリジュク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

ボグダン・パブリー

翻訳編集:

平野高志

Ukraїnerをフォローする