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現在、多くの女性がウクライナを防衛しています。前線を守っている女性もいます。侵略が始まって以来、約6,000人の女性が軍に入り、7 月の時点でその人数は38,000人を超えています。他の女性たちは後方支援を強力なものとし、戦場にいる兵士のサポートを行っています。迷彩ネットを織り、避難民のための避難所を設置したり、温かい昼食を作ったり、支援物資の配達したり、海外から救急車の車両を運んできたり、軍のための資金を集めたり、子供たちの世話をしたりしています。一人一人は敵との戦いに尽力して、自分にできることをしています。

ハンナ・リャスナ、イリナ・イヴァンニコヴァ、ユリヤ・シマチョヴァ、そしてリナ・フロジックは、ウクライナ東部に生まれ、2014 年と2022年にロシアの攻撃が始まったために家を離れざるを得なかった活動家たちです。彼女たちの暮らしの一部は、現在一時的な占領下にある都市に残ったままです。それにもかかわらず、彼女たちはウクライナの女性の権利を擁護し続け、公共のイニシアチブを展開し、自由なドネツク地方とスロビダ地方に戻ることを目指しています。

ハンナ・リャスナ リシチャンシク

ハンナは活動家で、リシチャンシク市文化会館の館長で、NGO「文化の光」のメンバーです。また、9歳の息子であるヤロスラウの母親で、兵士の妻でもあります。ロシアによるウクライナへの全面的な侵略が始まった後、ハンナは家族と一緒には生まれ故郷のリシチャンシクを離れ、ドニプロに避難せざるを得なくなりました。しかし、彼女は公的な活動家としての活動を続けました。最初の頃、ハンナは、7月の初めから完全に占領されている自分の地域からの避難民を助けることに力を注いできました。セヴェロドネツクからドニプロに従業員とともに移転したルハンシク州青少年イニシアチブ支援センターで、志を同じくする人々を集め、家を追われた家族に支援物資を提供する仕組みを立ち上げました。

— 当センターのボランティアも、ほとんどがルハンシク州から避難してきた方々です。 ですから、最初はルハンシク州へ支援貨物を送る活動がほとんどでした。 私たちは皆自分の家のことで心がいっぱいで、それが活動に参加する理由です。主に、セヴェロドネツクとリシチャンシクから避難してくる人たちの要求に対応していますが、ドネツク州からの避難民から連絡があれば支援します。

その後、ハンナのチームはコールセンターを結成し、助けが必要な人々のデータベースを編成しました。そして、最も必要なものを順番に受け取るためにその人々を招待し始めました。さらに、ハンナは常にリラクゼーション、コミュニケーションや創造的な交流スペースを開くことを目指してきました。

— 地方の若者が研修に来た際に、高いホテル宿泊料を払わずに滞在できるプラットフォームを作りたいと思っていました。みんながお互いを知り、コミュニケーションできる若者の空間としてイメージしました。 2022年に設立したいと考えており、すでにパートナーや場所を見つけました。しかし、それは実現しませんでした。

その代わりに、ハンナは避難民のための避難所を作りました。そこでは、移動する前に立ち止まって休む人もいれば、止まって新しい家を見つける人もいます。多くの家族がここに1週​​間以上住んでいます。シェルターのすべての居住者は、必要に応じて、医療、心理、および法的支援を受けます。

— 私たちのシェルターでのストーリーは、個別具体的なものになっています。砲撃の後に私たちのところに来る人がいます。両親が亡くなった子供たちもいます。その子たちは、人生を通して彼らを導き続け彼らの保護者になりたいと思っている隣人と一緒に来ました。家族全員が次々と移動し、孫が祖母と一緒にここにいるということもあります。

ハンナは今の時点で止まる予定はありません。 私たちの未来である若者のために働く必要があると言っています。そのためにチームと共に、変化を求める若い活動家を支援するためのプロジェクトに取り組んでいます。最も近い計画では、イヴァーノ・フランキーウシク、チェルニウツィー、ドニプロの青年評議会のモバイルオフィスのネットワークを開く予定です。

彼女の息子は、主要なモチベーションであり続けています。戦争は、9歳のヤロスラウにおけるほぼ全ての生涯において続いています。ハンナによると、彼はウクライナ人であることを誇りに思っています。

ー 息子は戦争とは何かを知っていて、誰が私たちを攻撃したのを理解しています。彼はまた、ボランティアセンターに行き、箱を降ろして、私たちの勝利に貢献しています。彼は軍を助けるボランティアだと誇らしげに言います。ヤロスラウと私は一つです。彼はおそらく夫よりも私のことを理解しています。いい母親とは言えません。それはヤロスラウは言うべきですが、私は行っていることは全て彼のためなのです。

イリナ・イヴァンニコヴァ フルスタリニー

イリナは、母国の国境を守りたいということと、ウクライナ人である権利のために戦うということに関しては、2014年のロシアとウクライナの戦争とともに感じるようになりました。その当時、イリナは学生でした。ある日、爆発の音で目が覚め、しばらくして、地方行政区の入り口でロシアの旗を見ました。

ー その時、私は10代で、反抗的な行動をとっていました。受け入れられないこと、同意できないことがあれば、直接そのまま話しました。ある日、ロシア語のレッスンでウクライナの国歌を歌ったことがあります。それから私たちは、ウクライナを支持する人々が集まるソーシャルネットワークでの反対活動をしていました。みんなで話したり、たまに集まったりしました。しかし、多くの人が捕まって地下室に運ばれ、そこから戻らなかった人もいたため、非常に危険でした。

その後、イリナは占領されたフルスタリニーを去り(2016年まではこの都市はクラースニー・ルチと呼ばれていました)、上ドニプロ地方に移り、大学に入学しました。そこで、青年評議会協会で志を同じくする人々に会い、公共の活動に従事し始めました。イリナは、リーダーシップ、民主主義、若者のイニシアチブの開発とサポートに関するさまざまな会議に積極的に参加しました。その後、彼女は仲間とともに、NGO「平和構築の青年指導者」を設立し、「ウクライナ青年評議会協会」の調整本部を率いました。

イリナは国内避難民として、ロシア語と彼女が生まれた地域のために、あらゆる偏見と軽蔑的な態度を経験しました。

— 当時まだ移住してきた人が少なかったキーウの近くの小さな町に来ました。そして、もし私がドンバス出身でロシア語を話しているのであれば、私は自動的に悪い人であるという印象がありました。お金がなく、誰も助けてくれず、飢えに苦しむ日さえありました。私は助けを求めましたが、人々は背を向けてしまいました。これには、ロシアのプロパガンダと固定観念の両方の影響があるのではないかと思います。ある移住者が悪い場合、他のすべての移住者もそうと思われがちです。

したがって、彼女が従事していたプロジェクトの中には、移住者に対する偏見を見直す試みもありました。特に、自分自身が見本になって、東部出身の女性が他人の権利を守れるのを証明できることです。

2022 年2月24日以降、NGO「平和構築の青年指導者」は、女性が危険な場所から避難して海外に避難するのを支援しています。

― ある女性は警報サイレンの音がとても怖かったのです。彼女が避難できるのを手伝いました。その後、新しい問い合わせが届き始めました。今でも、避難した女性と連絡を取り合っています。

イリナにとって、すべての人の人生におけるストーリーは重要です。まずは、女性が自分の可能性を高め、法的および心理的な支援を提供できるよう努めています。ウクライナは自由で独立した人々の国家であるため、彼女はこれらすべてがウクライナで実現できると確信しています。

— ウクライナは自由であり、発展しており、そして自分らしく生きるチャンスがあります。 好きな服を着ることができるところです。 何かを投稿しても地下室に連れて行かれない国です。 自分らしく生きて、自分の生き方のせいで射殺されない自信を持つことができます今日、とても良い言葉を見かけましたました。「思考の意志は武器で殺せない」というものです。それが私にとってのウクライナです。

ユリヤ・シマチョヴァ マリウポリ

全面的な戦争が故郷を襲ったとき、ユリヤはすぐに最も支援を必要としている人々を助ける活動をしました。当時、彼女は2つのレストランを経営し、ロシアの侵略が始まった直後に、ボランティアキッチンに変更しました。地元の人々のために無料のランチを用意し始めました。

ー 2月26日に開始しました。最初の頃は、300人から400人に食事を提供していました。3月以降、その数は2,000人に上りました。その後、電気、ガス、水道の供給はなくなってしまいました。発電機での調理に切り替えました。調理するのはレストランの従業員だけではなく、私の友人も参加しました。

2月24日まで、レストランでの主な仕事に加えて、ユリヤは、慈善活動に積極的に取り組んでいました。 友人たちと一緒に、物資と援助を集める基金を設立しました。 ほとんどの場合、病気の子供たちの治療のための募金活動をしていました。新しい現実では、基金は変革され、軍と避難民を支援し始めました。

しばらくして、ユリヤは占領下のマリウポリを出てスウェーデンに向かい、そこで1か月半滞在しました。この間、彼女はチームと継続的に連絡を取り合っていました。彼らはテレグラムでチャットボットを作成し、マリウポリを離れて他の都市や海外に避難した人々をサポートしました。ウクライナ国内および海外の移民に対するさまざまな支援、新しい場所への定住に関するアドバイスなどの必要な情報を1か所に集めました。さらに、ウクライナの5つの都市であるオデーサ、キーウ、ミコライウ、ハルキウ、ドニプロに支援物資センターを設立することに成功しました。最初の頃は、マリウポリ出身の人々を助けることに焦点を当てていましたが、後に、ロシアの侵略から逃れることを余儀なくされた他の地域の人々も同様に支援を必要としていることに気付きました。

ー 私たちが財団でお世話をしている子供たちが数人います。その中には、脳性麻痺の盲目の少年が1人います。 侵略開始直前、彼のリハビリのための資金集めを行っていました。彼はすぐに治療を受けないといけなかったのです。私は彼らの避難を手伝い、自称ドネツク人民共和国を通って連れ出しました。その時、私は電話をして「あなたたちに助けを求めることをとても恥ずかしく思っています。しかし、人間性が少しでも残っているなら、病気の子供を助けてください」と言いました。私達は幸運にも少年たちの通過が許され、現在ドイツで治療を受けています。

ユリヤにはそのようなストーリーがたくさんあります。人が苦しんでいるのを他人事にできないと言います。彼女の友人たちはよく冗談で「まあ、それはユリヤだからね」と言います。そして、彼女らが数日で達成できる大きな金額の資金募集にも、彼女が実地するイニシアチブの数にも、彼女の友人たちはまったく驚かなくなりました。ある日、彼女が老人の男性に会ったことがあります。短い会話で、彼が癌であることが判明しました。数分後、彼女はすでに男性のために食べ物と薬の資金集めを開始し、チームを動員させました。

ウクライナに戻った後、ユリヤは支援物資スタッフの仕事にオフラインで参加しました。彼女のチームには、24時間年中無休で働く多くのボランティアの女性が含まれています。問い合わせ対応、支援貨物の仕分け、食品バッグの準備、巨大な箱の運搬と配送などをしています。彼女によると、ウクライナの女性はまさにそのような行動と仕事への献身において秀でているといいます。特に現在の状況ではそれが顕著です。

ー 私たちの女性は私にとって新しい発見です!彼女たちの多くは、戦前に同様の経験をしていませんでした。しかし今、勉強し、最善を尽くしています。網を編む女性たち、ボランティアの女性たち、最前線に行く医療従事者の女性たちです。これは非常に英雄的な行動です。これが私たちの文化的コードです。

リナ・フロジック スタロビリシク

リナのストーリーは四輪自転車から始まりました。本人は冗談めかして、子供の頃からのこの出来事を彼女の権利闘争の始まりと呼んでいます。ある日、家に帰ると、隣の男の子が彼女の自転車を自分の庭に転がしているのに気づきました。彼女は考えることなく、彼の後を追いました。

ー当時、両親の助けを求めませんでした。解決しに行ったのは父や母ではなく、私自身です。自転車を無事に取り戻しました。その少年と大喧嘩をしました。それでも私は自分の財産を守りきることができました。ですから、幼い頃から問題があれば解決しなければならないということを理解していました。

それ以来、リナは止まることがありません。将来の職業選択にも影響を与え、リナはルハンシク内務省大学に進学しました(2016年にセヴェロドネツクに移転。)

— 中学3年生のとき、私が参加した軍事愛国ゲームの「ジュラ」が始まりました。大体その頃、このような大学に入り制服を着たいと思ったのです。 私は人々や人権を守り、正義の味方になりたいと思ったのです。 良心に従って行動したいと思ったのです。

大学では、リナはすぐに学生自治会に参加し、後にそれを率いました。そこで、他の女性たちと一緒に、教育に関連する課題に取り組んでいました。それらは日常生活のこともあればや小さなこと(たとえば、運動後にシャワーを浴びること、トレーニングユニフォームを改善など)にも関連することもあったと彼女は言いますが、他の女性を助けるという義務を感じていました。

今年、大学を卒業した後、他の卒業生と同様に、すぐに専門分野で働くように割り当てられました。占領されたスタロビルシクにいた彼女には、生き残るという主な任務がありました。ほとんどずっと家にいて、そのような状況では自分の将来を築くことができないことを理解しました。そして、リナは故郷を離れることにしました。避難先にドニプロを選び、ウクライナ国家警察の一員として地元の警察署で働くことにしました。その後、転勤になり、今はキーウの近くのヴィシュネヴェで捜査官として働いています。

— すべてがウクライナとなったときに、私は家に帰ります。 でも今は残念ながら帰れませんし、正直に言うと、帰りたくありません。 あそこにいた時、親戚の近くに住んでいたにもかかわらず、檻の中にいるような気がしました。 私にはあの場所に仕事がないと理解していました。私は行動したくても何もできないと感じていました。ですから、自分の選択をし、 そして何も後悔していません。

リナは、現代のウクライナの女性の強みは、主に自由な環境で育っているという事実にあると確信しています。

— 私たちには、男性と対等に話し、私たちに関係する問題を解決する権利があります。ウクライナの女性で何人がウクライナ軍に入っているかを見てください!現在の状況から子供や家族を守り、努力しています。私たちの女性を誇りに思っています。私たちには尊敬すべき人がいます。

支援について

この記事は、「女性・平和・安全プロジェクトの推進における「ドネツク州とルハーンシク州の若い女性の可能性を強化するプロジェクトの枠組みの中で、UN Women の支援を受けて NGO「Internews Ukraine」と共同で作成されました。 国連開発計画(UNDP)、ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連における枠組み(UN Women)、国連人口基金(UNFPA)および国連食糧農業機関(FAO)の4つの国連機関によって実施される復興と平和構築のための国連計画です。 このプログラムは、欧州連合(EU)、欧州投資銀行(EIB)、駐在ウクライナ米国大使館、デンマーク、カナダ、オランダ、ドイツ、ノルウェー、ポーランド、スイス、スウェーデン、日本政府の12の国際パートナーによってサポートされています。  

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者,

編集:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

クセニア・チクノバ

編集長:

ナタリヤ・ポネディロク

写真編集,

フォトグラファー:

ユーリー・ステファニャク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

藤田 勝利

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