この記事では、ウクライナ語の誕生以来、ウクライナ語に何が生じたのか、そしてウクライナ人が現在使っているウクライナ語がどのように形成されたのかをお伝えしようと思います。あらゆる抑圧を生き延びて、ウクライナ語は、存続しているだけでなく、ヨーロッパの国境を越えて世界各国にまで広がり、ウクライナ語を使うウクライナ人の数も着実に増えていることをお伝えします。
ウクライナ語の前に存在していた言語とは?
ウクライナ語も含め、現代の各言語が発達し始めたのは、明確なデータも存在しなかった遥か昔のことです。即座に使用できる通信手段もなく、最速の交通手段が馬による往来だった世界では、人々は身近な隣人以外とコミュニケーションをとる機会は遥かに少なかったのです。外国人商人や征服者がいたこともあれば、民族独自の交易活動や征服が人脈を広げるのに役立ったこともあります。言葉を学ぶための文法や教科書もなかったため、私たちの祖先は故郷や村で話されている言葉しか知りませんでした。
今日、ウクライナ語はそれ単独で存在しているわけではないことが知られています。スラヴ諸語と呼ばれる他の多くの言語と関係があります。スラヴ諸語の類似性は偶然のものではありません。スラヴ諸語の類似性は偶然のものではありません。例えば、同じ単語の語根と接尾辞には似て非なるものがあります。例えば、ウクライナ語の-івはロシア語の-овやポーランド語の-ów(発音は /uf/)に対応し、LvivはLvovとLwów、KrakivはKrakovとKrakówのようになります。このような言語間の違いは、それぞれの言語が異なる法則に従って発展してきたことを意味します。そして、言語学者がこれらの法則を理解すれば、ウクライナ語の起源が関連言語においてどのようなものになるかを予測できるだけでなく(常にそうなるとは限りませんが)、これらの法則が現れる前、そしてこれらの違いが異なる言語を形成する前に、これらの要素がどのようなものであったかを想定することもできるようになります。
スラヴ諸語は、スラヴ人が「スラヴ人」と言われる遥か以前に使われていた言語であり、言語学者たちはこれを「スラヴ祖語(英語:Proto-Slavic, ウクライナ語:Праслов’янська мова)」と呼んでいます。しかし、これは単独で出現したのではなく、ゲルマン祖語、バルト祖語、その他何十もの現代言語の祖語のように、インド・ヨーロッパ祖語から分離したのです。しかし、もちろんこれは仮説に過ぎません。学者たちは、これらの言語が本当に存在したかどうかについて把握していません。おそらく、かつては相互に理解可能であったものの、時間の経過とともに大きく変化した膨大な数の下位方言が存在したのでしょう。
現代の各言語の祖先
ウクライナ語はどのようにして(仮説上の)スラヴ祖語から形成されたのでしょうか?
スラヴ諸語の発達について、スラヴ人がこれらの領土に定住する以前のことについては、言語学者も多くを把握していません。スラヴ祖語の統合が崩壊した6世紀以降、ウクライナ祖語*(英語:Proto-Ukrainian, ウクライナ語:Протоукраїнська мова)の時代が始まり、それはおよそ11世紀まで続きます。この11世紀末から12世紀半ばにかけて、ウクライナ語における体系面での大きな特徴が現れます。当時、ウクライナ語の形成はポリッシャ地方とポジッリャ地方という2つの主要な地域で起こっていました。言語学者のユーリ・シェヴェリョーウは、これらの地域を「下位方言地域」と呼び、これらの初期の方言形態を言語と呼ぶのは不適切であると強調しています。
*ウクライナ語の歴史について
ユーリ・シェヴェリョーウによると、ウクライナ語はスラヴ祖語から直接発展した言語とされている。スラヴ祖語が崩壊した後、「東スラヴ人」の間で5つの方言が発達し、そのうちの2つであるキーウ=ポリッシャ方言とハリチナ=ポジッリャ方言がウクライナ語を形成した。 シェヴェリョーウは、ウクライナ語の歴史を6つの時期に分類した: ウクライナ祖語(протоукраїнська):7世紀~11世紀、 古ウクライナ語(давньоукраїнська):11世紀~14世紀、 初・中期ウクライナ語(ранньосередньоукраїнська):15世紀~16世紀、 中期ウクライナ語(середньоукраїнська):17世紀半ば~18世紀初頭、 中・後期ウクライナ語(пізньосередньоукраїнська):18世紀、 現代ウクライナ語(сучасна):18世紀末~現代。 本記事では、上記の概念に沿ってウクライナ語の歴史について解説している。若き日のユーリ・シェヴェリョーウ(1934~1936年、ハルキウ) 画像はDmytro Antonovych Museum-Archives in UVAN, New York, USAより
この2つの地域が言語に与えた影響とはどのようなものだったのでしょうか?後にロシア語とベラルーシ語が生まれることになる地域全体では、前母音(e, i, ĕ) の前の子音はすべて口蓋化されています。そのため、ロシア語のхлеб(パン)やдерево(木)は/xlɛb/(フリェーブ)や/dɛrɛvo/(デェーリェヴォ)と発音されますが、ウクライナ語ではдерево /derevo/(デーレヴォ)およびнебо/nebo/(ネーボ)のようにeより前の子音は口蓋化されません。хліб(パン)という単語では、スラヴ祖語のĕ(後にѣ (ヤット)という文字で表される)に由来する母音がiに変化し、前の子音が口蓋化されています。
また、цвістиとквітнути(花が咲く)という単語に含まれるцв-とкв-の音の組み合わせは、ウクライナ語では現在まで残っていますが、ロシア語の文語にはцвестиしかなく(方言にはкв-を含む形もあります)、一方でポーランド語にはkwiatnąćがあります。スラヴ祖語の音の組み合わせкв-はポリッシャ地方では変化せず、ポジッリャ地方でцв-に変化したのです。そして、ここでもう一つの似て非なる点を見ることができます。スラヴ祖語の音ĕ(古代のウクライナ語の記録ではѣ(ヤット)で表される)は、ウクライナ語ではі(iとиの文字で表される)に変化しましたが、ロシア語ではе(eの文字で表される)に、ポーランド語ではeまたはa(前の子音が口蓋化されているため、文字ではia)に変化しました。これら3つの言語で「白い」という単語がどのように発音されるか比較してみましょう。
ウクライナ語:білий/bilyʲ/, ロシア語:белый/bɛlyʲ/, ポーランド語:biały/bjauy/
今日、学者たちは、ウクライナ語のある特徴が、スラヴ祖語から直接受け継がれていることを明らかにしています。例えば、単数男性名詞の与格の語尾-ові, -еві(домові, князевіなど)、呼格 (друже, княже, братеなど)、不完了体・完了体動詞一人称複数形の現在形と未来形の語尾-мо(даємо、зробимо)、単数名詞の与格と前置格における子音 г, к, х→з, ц, сへの子音交替(слузѣ, на березѣ, в рѣцѣ)などです。
ウクライナにおける言語は、ある一部の音声的な特徴においてスラヴ祖語から外れています。すでに紀元1千年紀の後半には、г[ɦ]の代わりにґ/g/が現れていました。別の例として、ж, ч, ш, йの後のеは、無口蓋子音оに変化しました:жена(妻)はжона、 человѣк(男)はчоловік、єго(彼を)はйого、пшено(キビ)はпшоноに変化しました。
最初の文書的記録が出現すると、古ウクライナ語(英語:Old Ukrainian、 ウクライナ語:давньоукраїнська)として知られる言語発達の時期が始まりました。
この段階で、今日認識されているウクライナ語の特徴の多くが出現します。最も重要でありながら、現代の人たちにとって最もわかりにくい変化は、母音の数が減り、子音の数が増えたことです。ウクライナ語には、ポーランド語に残っている鼻音のęとąが存在していました。ьとъに代表される短母音は、全母音になるか、消滅しました。もちろん、ウクライナ語とベラルーシ語には軟音記号:ьが残っていますし、ロシア語には硬音記号:ъもあります。しかし、これらは長い間独立した母音として機能してきませんでした。初期のスラヴ祖語には、10個の母音と10個の二重母音(2 つの母音を組み合わせたもの)があり、子音はわずか15個でした。古ウクライナ語では、母音が9つしか残っておらず、子音は約30あったという説もあります。
音声学的な面において起こったウクライナ語の変化の数を考えると、スラヴ諸語の親和性の度合いをおおよそ判断することができます。ユーリ・シェヴェリョーウは、スラヴ祖語が崩壊した後に残った共通現象に基づいて、現代のスラヴ諸語を比較しています。ウクライナ語に最も近いのはベラルーシ語、次いでロシア語、ブルガリア語、ポーランド語、スロヴァキア語となっています。言語学者のコステャンティン・ティシチェンコによると、ウクライナ語に最も近いのはやはりベラルーシ語(語彙の84%が類似)で、次いでポーランド語(70%)、スロバキア語(68%)、ロシア語(62%)となっています。
ウクライナ語と他のスラヴ言語との類似性 ポーランド語:70% ベラルーシ語:84% ロシア語:62% スロヴァキア語:68%
古スラヴ語(古代教会スラヴ語とも呼ばれる)は古ウクライナ語と同じなのでしょうか?
いいえ、違います。
ウクライナとベラルーシの土地には、キリスト教とともに文字言語がもたらされました。書物の中の言語は口語とは大きく異なっており、実際、これらは異なる言語でした。さらに、宗教的な文書と一般社会の文書(例えば、法律や政令など)は異なる言語で書かれていたと学者たちは主張しています。11世紀には2つの文語がありました:
1. 古スラヴ語(古代教会スラヴ語とも呼ばれる)は、古ブルガリア語の方言の一つを基にしたもので、特に聖書をギリシャ語からスラヴ人に理解しやすい言語に翻訳するために作られました。
2. 古キーウ語は、古東スラヴ語または古ウクライナ語とも呼ばれ、キーウ・ルーシ内の公式文書やその他の一般的な文書の言語でした。
残念ながら、ボイスレコーダーやSNSがなかったため、当時の人々が話していた言葉を正確に再現することは不可能です。しかし、現地の書き言葉が浸透していたため、ある一定の特徴を再現することは可能です。例えば、「1073年と1076年のイズボールニク」*には、今日のウクライナ語の特徴であり、近隣諸国との違いを示す特徴があります。一例として、動詞の三人称の語尾-тьでは、ѣとиが混同されており、これはѣ(ヤット)で示される音がiのように発音されていたことを意味します。
*1073年と1076年のイズボールニク
スヴャトスラウ2世のために作成された古ウクライナ語翻訳文学の遺産。これらは、ウクライナで最も古い古代教会スラヴ語と古ウクライナ語の文献の一つ。イズボールニク(当時の様々な情報が載っている書籍)にはウクライナ語の典型的な特徴が反映されている。「スヴャトスラウのイズボールニク」とも呼ばれる。12世紀以降は、古代教会スラヴ語ではなく、古代教会スラヴ語のキーウ・イズヴォード*について触れることが適切です。イズヴォードは口語から蓄積された変化が特徴で、キーウ・イズヴォードではкъдє、сьдє、モスクワ・イズヴォードではкъдѣ、сьдѣのように、読み方(前述のѣの誤読)や単語の綴りに影響を与えました。例えば、古スラヴ語の鼻音ęを表す文字ѧ(小ユス)は、古ウクライナ語の記録ではıаと代替可能な文字として使われていました。結果的に、古代のユスの綴りは次第にウクライナ語の文字яに変化していったのです。
イズヴォード
教会スラヴ語を現代の各スラヴ語に近い読み方で読む習慣のことしかし、古代のどの記録が古ウクライナ語に属するのかを区別するのは困難です。古代の写本には通常、作成された場所や時期が記されていませんし、記されていたとしても、それが必ずしも真実であるとは限りません。同時に、ノヴゴロドやスーズダリのどこかで作成された本でも、その写本作成者がウクライナ出身であれば古ウクライナ語の文書記録に分類されることもありますし、その逆もあります。シェヴェリョーウは、ポロツク(ベラルーシ)のエウフロシネ十字架に記された文字によって、この十字架が古ウクライナ文学として分類されることを指摘しています。一方、キーウの聖ソフィア大聖堂のグラフィティの一部は、明らかにモスクワ・イズヴォード話者が作成したもので、ウクライナ文学には属さないと指摘されています。
キーウ・イズヴォードとは、キーウ・ルーシにおける古代教会スラヴ語です。言語学者は、古代教会スラヴ語のウクライナ語版という用語を、この古代国家が崩壊した後に記述された言語を指すために使用しています。他にもロシア語版、ベラルーシ語版、セルビア語版などがあります。古代教会スラヴ語のウクライナ語版は、ラヴレンティー・ジジャニーが「フラマティカ(日本語で「文法」、ウクライナ語:Граматика)」(1596)で記述し、メレティウス・スモトリツキーが自身の「フラマティカ」(1619)で体系化しました。
古代教会スラヴ語のウクライナ語版は、正教会におけるキーウ府主教区とギリシャ・カトリック教会の礼拝で使用されました。ラヴレンティー・ジジャニーの「フラマティカ」と同時に、最初の教会スラヴ語-ウクライナ語辞書が出版されました。その中の教会スラヴ語は、古キーウ語から派生した言語に調整されており、その言語は人々が話している言語により近いものでした。
ラヴレンティー・ジジャニーによる最初に印刷された教会スラヴ・ウクライナ語辞書(1596年) ソース:Wikipedia
同じような現象、つまり文語と口語の明確な区別は、多くの文化に共通しています。例えば、西ヨーロッパでは、長い間ラテン語が教育、科学、宗教の言語でしたが、人々は日常生活では異なる言語を使用していました。14世紀の初め、ダンテ・アリギエーリはトスカーナ地方に住んでいたため、その地方の話し言葉で「神曲」を書きました。この方言が文学におけるイタリア語の基礎となりました。
また、たとえばオスマントルコ語は、13世紀から20世紀の前半まで、オスマン帝国で行政や文学の言語として使われていました。しかし、市民の多くは所謂「一般的なトルコ語」(kaba Türkçe)を使用していました。
ウクライナの詩人イヴァン・コトリャレウシキーが、口語と文語の間にある違いを埋めるために、有名な「エネイーダ」の詩を書いたというのは本当ですか?
18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ全土で民族やその伝統、考え方に対する関心が高まったのは事実です。これが引き金となって民族解放の気運が高まり、ドイツ、イタリア、チェコ、ポーランド、ハンガリーなどといった多くの近代ヨーロッパ国家が後に誕生することになったのです。
しかし、コトリャレウシキーが活きた口語で文章を書く理由は他にもありました。
ロシア帝国の台頭とともに、ウクライナ語版教会スラヴ語はロシア語に取って代わられ始めました。1720年以降、ウクライナ左岸に関するピョートル大帝の勅令は、ロシア語版でしか書物を印刷することを認めませんでした。1729年の勅令では、すべての政令や命令をウクライナ語からロシア語に書き換えることが義務付けられました。1740年以降、ヘトマン国家のあらゆる文書はロシア語で保管されることになりました。1794年、キーウ府主教のサムイル・ミスラウシキーは、キーウ・モヒーラ・アカデミーにロシア語版の教会スラヴ語を義務付ける新たな法令を発布しました。ロシアから見れば、これは言語の標準化に向けた動きでしたが、何世紀にもわたる書物や文学と関係する伝統を持つウクライナのアカデミーから見れば、これは抑圧であり非常に大きな制限でした。
ウクライナの土地に存在したすべての文学的言語が禁止されたとき、知識人に残された道は、その土地で話されておらず、伝統も数百年にしかなかったロシア語で文章を書くこと以外に何が残されていたのでしょうか?
1968年にアナトリー・バジレヴィチのイラストとともに出版されたエネイーダ ソース:http://uartlib.org.
まだ誰にも禁止されていなかった現地の生きた言葉を、知識人たちは文章に使い始めました。1798年、イヴァン・コトリャレウシキーの「エネイーダ」がサンクトペテルブルクで出版されました。
コトリャレウシキーの「エネイーダ」は、ウクライナ語で文章を書くことを促したのでしょうか?
「エネイーダ」は確かに当時の知識人の間で人気のある作品でしたが、現地の言葉で読むというのは珍しく、ウクライナの文学言語はどうあるべきか、また、ユーモラスな作品だけでなく文学的な作品も書けるのかという議論が起こりました。
1830年代には、現地の言葉で書かれたハルキウでコトリャレウシキーの他の作品が出版されました。戯曲「ナタールカ・ポルターウカ」や「モスカル・チャリウニク」(ロシア人の魔術師)、フリホーリー・クヴィトカ=オスノヴヤネンコの小説などです。
1840年、タラス・シェフチェンコの「コブザール」がサンクトペテルブルクで出版されました。シェフチェンコの特徴は、ウクライナの上ドニプロ地方出身の彼が、詩の中で地元の方言を使いながらも、どこの出身であろうとウクライナ人なら誰でもわかるような言葉を選んだことで、シェフチェンコの詩はウクライナを代表するものとなっています。
タラス・シェフチェンコ イラストレーター:オレクサンドル・グレホウ
上ドニプロ地方では、聖書、シェイクスピア、ゲーテ、バイロン、ハイネなどの世界文学の象徴的な作品の翻訳が、生きたウクライナ語で出版されました。
同じ頃、オーストリア=ハンガリー帝国の一部であったハリチナ地方でも、当時のウクライナ語が話されていた地域と同様の現象が起こりました。1848年、リヴィウでウクライナの現地言語で書かれた最初の新聞「ゾーリャ・ハリツィカ」が発行されました。1830年代と1860年代は、ウクライナ中東部と西部の両地域で文化が興隆した時期で、多くの文化的資料やウクライナ語の教本などが出版されました。
そのため、実際に話されているウクライナ語に基づいた文章が多く書かれるようになりました。ウクライナ語の標準化も試みられました。
現代のウクライナ語は、ポルタヴァ・キーウ方言に基づいて成り立っているというのは本当ですか?
はい。というのも、最初に実際に使われていたウクライナ語で執筆した作家たちは、ポルタヴァ地方・上ドニプロ地方・スロボダ地方の出身ですが、現代のウクライナ語の文語は、西ウクライナ方言の影響も大きく受けています。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ロシア帝国ではおよそ470の検閲令が出されましたが、最も顕著なものは1863年のヴァルエフ指令と1876年のエムス法です。これらの法令では、ウクライナ語(現地言語に基づくものを含む)による書籍の出版が禁止されました。最初は小説を除くすべての書籍の出版が禁止され、その後、小説を含むすべての書籍の出版が禁止され、音楽の楽譜さえも出版が禁止されました。エムス法はまた、学校・教会・ジャーナリズム・新聞・雑誌・科学・公式文書・翻訳・演説・演劇などにおけるウクライナ語の使用を禁止しました。
ヴァルエフ指令とエムス法によってロシア帝国全土で禁止されたウクライナ語による書籍出版は、 ハリチナ地方とブコヴィナ地方という当時帝国には属していなかったウクライナの土地に移らざるを得ませんでした。そして、現地の作家たちは、いつかウクライナが統一されることを悟り、将来的にウクライナの一員になることを志し、自分たちの文学言語に力を注ぐようになりました。
1914年当時のウクライナの行政区画。 地図はDmytro Vortman作成によるもの。 出典:www.likbez.org.ua
しかし、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、書籍出版がウクライナ西部に移ると、リヴィウやチェルニウツィーで出版された芸術・ジャーナリズム・科学出版物における言語は、地元における方言の言葉や、ハリチナ地方やブコヴィナ地方で使用されていた社会・政治・科学用語で満たされるようになりました。ウクライナ語の新聞はこの10年以上前から出版されていたため、当時ロシア帝国に属していてウクライナ語が話されていた地域のそれよりも専門用語は発達していました。
そのため、20世紀初頭には、ウクライナの文学用語は、ウクライナ西部で生まれた言葉が多く使われるようになりました。
1917年~1921年の民族解放闘争の時期は、ウクライナ語にどのような影響を与えたのでしょうか?
「ウクライナ化(英語:Ukrainization, ウクライナ語:Українізація)」という言葉が初めて使われたのは、ウクライナ中央ラーダ(ウクライナ中央議会)の時代でした。ユーリ・シェヴェリョーウが指摘しているように、「約200年の時を経て、ウクライナ語が立法・行政・軍・議会における公用語になった」のです。学校教育ではウクライナ語が導入されました。ウクライナ人民アカデミー、科学教育アカデミー、芸術アカデミーなどで、ウクライナ語の教育システムが導入されました。もちろん、教科書や専門用語、専門家は不足していました。そこで1917年の夏には、教師のためのウクライナ語講座が100ほど開講され、民間の「学校教育協会」が教科書の出版を始めました。また、大人に対するウクライナ語教育のために、独自の図書館を持ち講演会などを開催した「プロスヴィト*(ウクライナ語:Просвіт)」と呼ばれるネットワークが設立されました。
*プロスヴィト
は、文化・科学の発展、民族共同体の強化、ウクライナ人の民族意識の向上を目的として1868年にリヴィウで設立された市民団体。その頃、法律用語の標準化が始まりました。ウクライナ中央ラーダの文書には、コザークの時代から引用された多くの特殊な法律用語が明らかに見られます。多くの法律用語は借用語で、西ウクライナ人民共和国の文語はキーウ等で用いられていたウクライナ語のそれに非常に類似していた一方で、より多くのラテン語的借用語が含まれていました。
ヘトマン国家時代に政府は小学校のウクライナ化を推進しました。中等・高等学校では、すでに存在したロシア語学校を残しながら、ウクライナ語を教育言語とする学校を新設しました。ウクライナ語学科も開設されました。また、ウクライナ語の夏期講習も行われました。ウクライナ語と文化の威信を高めるために、国立図書館、ウクライナ科学アカデミー、方言学委員会・正書法委員会・用語学委員会などの国家機関が設立されました。また、「ウクライナ語の綴りに関する最も重要な規則」が承認されました。
ウクライナ人民共和国政権下の1919年1月3日には、「ウクライナ人民共和国の国家語に関する法律」が発布され、陸海軍、政府、その他の公的機関ではウクライナ語を使用することが義務付けられました(同時に、市民は国家機関に母国語で問い合わせる権利を持っていました。)高等教育機関ではウクライナ語が必修科目となりました。
当時、ウクライナ人民共和国とウクライナ人民共和国に属していなかったクリミアの軍隊はウクライナ化されていました。革命運動とウクライナ本土の民族解放運動は、当時70~80%がウクライナ人だった黒海艦隊の水兵に大きな影響を与え、彼らはセヴァストーポリのウクライナ人コミュニティの核となり、主要な原動力となりました。1917年4月末までに、ウクライナ兵は陸上部隊や艦上で多数のウクライナ人クラブや協議会を結成しました。ウクライナの出版社「アトス」がシンフェローポリに設立されました。
ソ連政府は常にウクライナ語を禁止してきたというのは本当ですか?
いいえ、ソ連時代はこの点において一貫していませんでした。1923年から1932年まではウクライナ化(ウクライナ語:Українізація)の時代で、ウクライナ語が急速に発展・普及しました。
ウクライナ化は「コレニザーツィヤ*」という政策の中で行われ、共和国の政府・労働者階級・都市の人々は、一般的に、現地の市民(まだほとんどが農民)によってほぼ維持されると宣言されました:ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国ではウクライナ人によって、ベラルーシ・ソヴィエト社会主義共和国ではベラルーシ人によって、クリミア自治ソヴィエト社会主義共和国ではクリミア・タタール人によって、といった具合にです。また、それぞれの言語は公用語、あるいは支配的な地位を与えられていました。
*コレニザーツィヤ(ウクライナ語:Коренізація)
ソ連の共和国や自治共和国の現地住民の代表を地方統治に参加させ、彼らの言語に公式的な(時には支配的な)地位を与える政策。ウクライナでは、コレニザーツィヤ政策がウクライナ化となりました。ウクライナでは、コレニザーツィヤ政策がウクライナ化となりました。ヴァレリヤン・ピドモヒーリニーは小説「都市(ウクライナ語:Місто)」(1928年)の中で、村から都市に留学してきた主人公が、役人にウクライナ語を教え始めて立派な収入を得たことを描いています。つまり、農民が町の人々、特に役人がウクライナ語を知らなければ、何かを教えることができるようになったわけです。「都市と村の一体化」というスローガンのおかげで、都市は急速に農民で埋め尽くされ、そのおかげで都市もウクライナ化されました。学校にもウクライナ語が導入されました。ところで、ウクライナ化は、正式にはソ連の一部ではなかったものの、クバニ・クルスク・ヴォロネジ・極東(ゼレーニー・クリン*)などウクライナ人が多く暮らしていた土地でも行われました。
*ゼレーニー・クリン(緑ウクライナ、ウクライナ語:Зелений Клин)
当時、外満州とロシア極東の沿岸地方においてウクライナ人が暮らしていた地の名称。緑ウクライナとも呼ばれた。1917年には42万人のウクライナ人が居住していたとされている。ウクライナ語の本が出版され、演劇や映画にもウクライナ化が行われました。
1922年にウクライナ語の新聞がなかったのに対し、1933年には426紙中373紙、雑誌では118誌中89誌がウクライナ語で発行されました。1933年には、ソ連の書籍の83%がウクライナ語で出版されたと記録されています。1931年には、88の劇場のうち66の劇場でウクライナ語による演劇が上演されました。
ノーヴァヤ・ソートニャのウクライナ人学校 1933年、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国、東スロボダ地方 出典:Wikimand
この頃、ロシア語はただ普及しただけでなく、体系化されて発展していきました。この頃、ウクライナ語はただ普及しただけでなく、体系化されて発展していきました。特に1924年から1933年にかけては、アハタンヘル・クリムスキーとセルヒー・イェフレーモウが編集した前例のないロシア語・ウクライナ語辞典3巻が出版されました。この辞典はウクライナ語の語彙に関する充実した資料となりました。第4巻の準備も行われましたが、知識人に対するスターリンのポグロムが始まったため出版されませんでした。すべての学者の研究は、当局によって破壊行為とされました。
2016年から2017年にかけて、ポテブニャ記念ウクライナ国立学士院言語学研究所とウクライナ国立学士院ウクライナ語研究所は、アハタンヘル・クリムスキーとセルヒー・イェフレーモウが編集した「ロシア語・ウクライナ語辞典」3巻を再版しました。
1920年代には、用語学の分野で大規模な研究が行われ、多くの用語辞典が出版されました。これにより、都市や農村のさまざまな分野でウクライナ語を使用する機会が生まれました。
1918年から1933年の間に83冊の用語辞典が出版され、そのうち30冊はウクライナ科学言語研究所から出版されました。辞書は、教科書やマニュアル、雑誌の付録としてなど、大小さまざまでした。「甜菜技術の専門用語辞典」から「純粋数学用語辞典」まで、さまざまなトピックを扱っていました。
ウクライナ化の過程で、正書法が標準化されました。19世紀に編纂された「クリシウカ」、「ドラホマニウカ」、「ジェレヒウカ」と呼ばれた正書法は、ウクライナ語が使用されていた各地域の特殊性を考慮したものではありませんでした。1925年、当時ソ連に属していなかった西ウクライナの代表者を含む20名の科学者からなる委員会が任命されました。1928年、正書法が承認され、義務化されました。今日、この正書法は「ハルキウ正書法」または「スクリプニキウカ」(当時の教育人民委員であったミコラ・スクリプニクにちなんで名付けられた)として知られています。これは当時のウクライナ中部・東部とハリチナ地方それぞれで使用されていた表記法に対する折衷案のようなものでした。ウクライナ中部・東部の方言や借用語の発音に合わせて、本来の単語をハリチナ地方での表記通りに書くことにしたのです。
なぜソヴィエトはコレニザーツィヤに頼ったのですか?
ボリシェヴィキ政府は、各共和国の理解と承認を得るために、各共和国の言語で演説を行いました。ボリシェヴィキは、各共和国の人々に自分たちを侵略者ではなく友人として受け入れさせるために、このようなことをしたのです。したがって、ウクライナ化は目的ではなく手段でした。目的はボリシェヴィキの権力を強化することでした。
ウクライナ化が終わった後、禁止と弾圧が始まったのですか?
そうです。1932年(ホロドモールの始まり)、コレニザーツィヤ政策は縮小され始めました。ウクライナ化は「ペトリュリスト / ペトリューラ主義的(ボリシェヴィキに積極的に反対し指名手配リストに載っていたウクライナの政治家シモン・ペトリューラに由来)」とされました。多くの言語学者、作家、劇作家、演出家、科学者が投獄され、強制収容所に送られ、あるいは処刑されました。
1933年、正書法委員会は1927年~1928年の「ハルキウ正書法」の規則を廃止しました。新しく編纂された辞書とともに「ブルジョワ民族主義」であると宣言したのです。当局は、「ウクライナ語とロシア語の間の人為的な障壁を取り除き」、「ロシア語がウクライナ語に及ぼす有益な効果を反映させる」ことを目的とした新しい辞書の作成に着手しました。また、ソ連当局は「ソヴィエト連邦諸民族の言語に共通する語彙」を開発し、同じ言葉をソ連のさまざまな共和国で広めるために国際主義(プロレタリア国際主義)を広く導入する必要があると考えていました。
ソ連政府は言語の構造的なメカニズムに干渉し始め、特定の単語や構文、文法形式の使用を禁止しました。その代わりに、よりロシア語に近い単語や、あるいは借用語を使用するように指示したのです。ウクライナ語では、格変化のなかで呼びかけの際に使用される呼格という格が存在しますが、これをソ連当局は削除しました。例えば、пані、добродійко(女性への呼びかけ)、пане、добродію(男性への呼びかけ)などです。ウクライナ語のアルファベットからґという文字も削除されましたが、例えばフリンチェンコの辞書(1907-1909)には300以上の単語でґという文字が使われています。
また、科学分野などでのウクライナ語の使用レベルにも制限がありました。1970年、ソ連教育省は、学位論文はロシア語のみで執筆しその内容を発表させる命令を出しました。
もちろん、ウクライナにおけるロシア語の普及は、ソ連の移住政策によっても促進されました。ソ連時代、多くのロシア人や 他の民族の人々がウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土に移住しました。彼らは自国の言語を使うことができず、代わりにロシア語を使いました。
ソ連時代の学校および大学などでの教育言語は?
1938年4月20日、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国人民委員会議およびウクライナ共産党中央委員会の決議「ウクライナの非ロシア語学校におけるロシア語の必修化について」が発表されました。1959年、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の最高議会(ヴェルホーヴナ・ラーダ)は「学校と生活における繋がりの強化とウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国における公教育制度のさらなる発展に関する法律」を可決しました。この新法により、学校でのウクライナ語の学習は義務ではなくなりました。この結果は、伝記映画「禁じられたもの(ウクライナ語:Заборонений)」(ウクライナ、2019年)のワンシーンで描写されています。後に有名なウクライナの詩人となるヴァシリ・ストゥスがウクライナ語と文学を教えているドネツィク州ホルリウカの学校でのシーンが描かれています。ある母親が、娘の授業からウクライナ語を削除してほしいと要求しています。娘は教師がその勤勉さと才能を褒め称える生徒でした。その女性は先生にお礼と謝罪を述べ、娘にはロシア語を習ったほうが生活が楽になると説明します。この授業が断られたのは1週間で2回目のことであることが判明します。この映画が描いているのは1963年頃のことで、状況は1959年の法律に完全に則っています。ロシア語とは対照的に、ウクライナ語は危険で希望のない言語だと考えられていたからです。
文化・教育系を除くほぼすべての中等教育機関(養成学校)においてロシア化が行われました。ドニプロペトロウシク、ハルキウ、オデーサ、ドネツィクの大学では、ウクライナ語学部を除くすべての学部でロシア語による授業が行われました。ポリテクニック、工業、医療、貿易、農業、経済などの教育機関ではロシア語で授業が行われました。ウクライナにおける一部の西部地域は例外でした。
そのため、ウクライナでは、学校でウクライナ語を勉強したことがない、ウクライナ語の本や新聞を読んだことがない、ウクライナ語の映画を見たことがないという人もいます。
ウクライナ人はロシア化政策に納得したのでしょうか、それともやはり反対したのでしょうか?
スターリンによる弾圧の最も厳しい時代にも、ロシア化に反対する声はありました。当時もスターリンの死後も、多くの抗議がありました。以下はその一例です。
1939年、マクシム・リリシキーは「リテラトゥールナ・ハゼータ(文学新聞、ウクライナ語:Літературна газета)」に「政令、禁止、制限に関連するシステム、管理制度は言語文化の発展には役立たない」と記載しました。ちなみに、マクシム・リリシキーも弾圧を受け投獄されましたが、強制収容所には送られませんでした。1969年から1970年にかけて、ボリス・アントネンコ=ダヴィドヴィチは、「リテラトゥールナ・ウクライーナ(ウクライナ語:Літературна Україна)」や雑誌「ウクライーナ(ウクライナ語:Україна)」において、これまで削除されてきた多くの単語や形とともに、ウクライナ語のアルファベットにґを戻すことを提起しました。当時、彼はすでに10年以上も刑務所や強制収容所で過ごしていました。イヴァン・スヴィトリーチュニーは、雑誌の紙面で1948年のロシア語-ウクライナ語辞典がウクライナ語をロシア化していると公然と批判し、その後、強制収容所で類義語辞典の作成にも取り組みました。しかし、困難な生活環境が原因でそれを完成させることは叶わず、病気になり早く亡くなりました。
1959年、「学校と生活における繋がりの強化とウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国における公教育制度のさらなる発展に関する法律」が可決され、学校ではウクライナ語を学べなくなったとき、ウクライナの詩人ミコラ・バジャンと前述のマクシム・リリシキーはマスコミを通じてこの法律に反対する主張を行いました。当時ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の最高議会の議長であったパヴロ・ティチナは、投票に不参加の意向で辞職しました。ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の国会議員であったオレス・ホンチャールとアンドリー・マリーシュコは、この法律の採択に反対する共同声明を発表しました。
1965年、イヴァン・ジューバは「国際主義かロシア化か?(ウクライナ語:Інтернаціоналізм чи русифікація?)」という書籍を執筆しました。当局はこの本を反ソ連的なものとし、その所持と流通を犯罪行為としました。
1978年、オレクサ・ヒルニクはウクライナのロシア化に抗議して焼身自殺しました。それ以前の4年間、ロシアの占領とロシア化に反対する手書きのビラを配布し続けていました。
チェルネーチャの丘におけるオレクサ・ヒルニクの焼身自殺現場 ソース:イストリーチュナ・プラウダ(ウクライナ語:Історична правда)
特に、ソ連政府から迫害されることなく、一見すると親切に扱われているように見える人々によって、抵抗が行われました。例えば、1940年代から1950年代にかけて、オレクサンドル・ドウジェンコの「炎のウクライナ(ウクライナ語:Україна в огні)」やヴォロディーミル・ソシュラの詩「ウクライナを愛しなさい(ウクライナ語:Любіть Україну)」といった作品が出版されました。これらは、文学的な形をした政治的なマニフェストと言えるものでした。例えば、世界初のサイバネティックス百科事典がウクライナ語で出版されました。どうしてそのようになったのでしょうか?世界初のコンピューター科学者の一人であるヴィクトル・フルシュコウにとって、サイバネティクスの百科事典を出版することは重要でした。また、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国で長年政府の要職に就いていた作家のミコラ・バジャンにとって、百科事典をウクライナ語で出版することは重要でした。バジャンはフルシュコウを説得し、初版をウクライナ語で出版することに成功したのです。1973年、サイバネティクス百科事典はウクライナ語で2巻出版されました。
ウクライナが独立した後、言語状況はどのように変化したのでしょうか?
独立の2年前、ソ連が「ペレストロイカ」を進めていた1989年、「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国はウクライナ語を国家言語とする」という内容の「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国における言語法」(ウクライナ語:Закон УРСР «Про мови в Українській РСР»)が成立しました。この地位はウクライナ憲法(1996年)にも明記されました。
しかし、長年の植民地支配の後、状況は惰性的に発展し、何世紀にもわたって続いてきたダイグロシアがその役割を果たしました。
ダイグロシア
一つの社会で二つの言語が異なる領域で機能すること。例えば、政治、教育、科学、公共で使われる言語と、日常生活や民族伝承で使用される言語という風に分かれている状態を指す。そのため、一方の言語は「より権威のある」あるいは「より上位の言語」として認識され、もう一方は「権威の低い」あるいは「より下位の言語」として認識される。一方では、ウクライナの歴史に対する関心が高まりました。例えば、カナダ人歴史家オレスト・サブテルニの書籍「Ukraine: A History」は、1991年にウクライナ語で出版され、10万部の発行部数を記録しました。さらに、1990年代の不況にもかかわらず、ソ連で弾圧されたり、意図的に抹消されたりした言語学者の本が出版されました。スヴャトスラウ・カラヴァンシキーの「ウクライナ語同義語実用辞典」(1993年)、イヴァン・オヒエンコの「ウクライナ文語史」(1995年)、フリンチェンコの「ウクライナ語辞典 全2巻」(1996年)などのウクライナ語辞典がそれにあたります。ソ連時代に禁止されていた言葉が再び使われ始めたのです。
その一方で、ダイグロシアを克服するようなバランスの取れた言語政策はなく、ウクライナ語は多くの分野でロシア語に取って代わられ続けました。ウクライナ語を教育言語とする学校の数は増加しました。ウクライナ語の学習時間も増加しました。大学の入学試験はウクライナ語で実施されるようになりました。ウクライナ語の試験も義務化されました。これらはすべて大きな成果でした。しかし、メディアではロシア語が主流でした。ロシアのマスメディアの支店がウクライナに開設されました。
カーチャ・チリー、ユルコ・ユルチェンコ、ヴィクトル・パウリク、音楽グループでは「VV(Vopli Vidopliassova、ウクライナ語:Воплі Відоплясова)」、「スクリャービン(ウクライナ語:Скрябін)」、「オケアン・エリジ(ウクライナ語:Океан Ельзи)」など、ウクライナ語でパフォーマンスを行うアーティストが音楽シーンに登場しましたが、ショービジネスではロシア語の方が依然として優位を保っていました。ウクライナ語の書籍の出版は、長い間、実際のビジネスというよりむしろ熱意の問題であり、国内市場は国家レベルでは保護も促進もされていませんでした。書籍についても、ロシアから支障なく輸入されていました。ウクライナのものよりも流通量が多いので安かったのです。この場合、1冊あたりの原価は安くなります。同様に、ロシア製の映画やロシアのテレビチャンネルも滞りなく放送されていました。他国の映画がロシア語に吹き替えられたり、ロシア語吹き替えの製品がロシアで買われたりしました。
オレンジ革命後、主にメディアの分野でいくつかの変化がありました。すべてのテレビ局とラジオ局で、放送と音楽におけるウクライナ語使用枠が50%に設定されました。2006年から2008年にかけて、多くの政令が配給会社にすべての外国映画に対するウクライナ語吹き替えや字幕付与を義務付けました。
ウクライナ語映画が数多く製作されるようになるかどうかという議論の一方で、ウクライナ語吹き替えの義務化という規制が導入された後も、ウクライナの人々は映画館に足を運び続けています。キーウ国際社会学研究所の調査によると、ウクライナ語の吹き替えによって映画館に行かなくなったと答えた市民はわずか3%で、ウクライナ語とロシア語の2つのバージョンで上映された初のウクライナ語吹き替えアニメーション映画「カーズ」(2006年)では、ウクライナ語版の方がロシア語版よりも15%多く視聴されたことが明らかになりました。特に、ロシア語圏が多数を占めるドネツィク州では、ウクライナ語版でこの映画を見た観客の方が多かったのです。
忘れてはならないのは、ロシアがこの間ずっと、ウクライナの言語状況に意図的に影響を与えていたということです。2009年、当時のウクライナ大統領であったヴィクトル・ユーシチェンコのウクライナ化政策に対して、ロシアのドミトリー・メドヴェージェフ大統領はユーシチェンコ大統領に公開書簡を送り、メディア、科学、教育、文化からロシア語を追放しようとしていると非難しました。
親露派のヴィクトル・ヤヌコヴィッチ大統領の下で、言語面における前大統領の功績を覆そうとする試みがなされました。その試みとは、ウクライナ語による映画の吹き替え義務化を、(何の言語かを問わず)映画の吹き替え義務化に置き換える決議や、映画が他言語で吹き替えられた場合にウクライナ語による字幕の義務化することなどです。その際、いわゆるキヴァーロウ=コレスニチェンコ法*(国家言語政策の原則に関する法律、№5029-VI 2012)も採択され、これによりウクライナにおける他言語の使用が拡大されましたが、その実態はロシア語の使用が拡大されたものでした。
キヴァーロウ=コレスニチェンコ法
(ウクライナ語での正式名称:Закон України «Про засади державної мовної політики») 2012年7月3日に採択され、これにより総人口の10%以上をマイノリティが占める州であればどこでも、ロシア語を含む地域または少数言語で教育や地方自治活動、経済活動などを行うことが可能となった。この法律により、特にウクライナ東部におけるロシア語の影響力が増した。同時に、ヤヌコヴィチ自身が、ロシア語話者が多く住んでいるウクライナ東部出身であったことや、ヤヌコヴィチが属していた「地域党」がウクライナ東部で支持を受けていたこともあったことから、ロシア語話者を意識した言語法であることが考えられる。 2018年2月28日には、ウクライナ憲法裁判所により同法は違憲であるとされた。そして2019年4月25日、これに代わる法律として、ウクライナ最高議会で「国家語としてのウクライナ語の機能の保障に関する」法律(ウクライナ語:Закон України «Про забезпечення функціонування української мови як державної»)が採択された。尊厳の革命(ユーロ・マイダン革命*)における勝利の後、2014年から2019年までの期間は、ウクライナ化の新たな段階と呼ぶことができます。言語使用の重要な分野である教育において、大きな変化が起こり始めました。2017年、「教育に関する」法律(ウクライナ語:Закон України «Про освіту»)が採択されました。それまでウクライナでは、1991年5月の独立宣言以前に採択された法律に従って教育が行われていました。2020年3月、「一般中等教育の完全実施に関する」法律(ウクライナ語:Закон України «Про повну загальну середню освіту»)が成立しました。これにより、中等教育ではウクライナ語での授業が義務付けられました。
この法律では、学校(12年制)を卒業するすべての生徒が国家語に堪能でなければならないと規定されています。
2019年、「国家語としてのウクライナ語の機能の確保に関する」法律(ウクライナ語:Закон України «Про забезпечення функціонування української мови як державної»)がいよいよ成立しました。この法律が施行された直後から、ウクライナ最高議会や地方自治体などの公な場でのウクライナ語の使用が増加しました。サービス業でも顕著な変化が見られました。
さらにこの間、2014年から2019年にかけて、ウクライナ文化財団(ウクライナ語:Український культурний фонд)、ウクライナ書籍研究所(ウクライナ語:Український інститут книги)、ウクライナ研究所(ウクライナ語:Український інститут)といった文化機関が設立されました。これらの機関はすべて、ウクライナの文化を支援し、新しいモデルを提供し、振興することを目的としています。この時期、映画やその他のクリエイティブ産業の発展に多額の資金が投じられました。これは特に、2014年から2019年にかけてウクライナ製作の映画が数多く公開され、その圧倒的多数がウクライナ語作品であったことからも明らかです。
ウクライナが独立した後、ウクライナ語は変化しましたか?
もちろんです。どの言語でも数年ごとにスラングが変化するように、ウクライナ語のスラングも変化しました。新しい現象を表す新語も生まれました。1990年代には、ソ連時代に禁止されていた、あるいは意図的に抹消されていた言葉が再び使われるようになりました。
同時に、ウクライナ語に対して押し付けられ、それ以前に広く使われていたロシア語的表現の否定も始まりました。
そしてもちろん、英語は今日の世界における支配的な言語であるため、ウクライナ語には日々、英語的表現の言葉が補充されています。借用語にウクライナ語の接辞がつくのです。
ロシア語に似た単語をすべて廃止すべきでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。
以前実施されたロシア化政策のせいで、ロシア語に似ているものはすべて廃止したがる人がいます。よって、ロシア語に似た言葉を避けるようになるのです。実際、ウクライナ語とロシア語は類似していますし、語彙も似ています。自給自足とは、異なる響きを持つ言葉と戦うことではなく、近隣の言語に目を向けることなくウクライナ語を話すことなのです。
また、ロシア語に似ていない単語がウクライナ語において特有であるとは限りません。例えば、ウクライナ語の「ダフ(意味:屋根、ウクライナ語:дах)は、実はドイツ語の「ダッハ / Dach」から借用したものです。しかし、ロシア語で屋根を意味する「クリーシャ / крыша」は、一般的にはロシア語的と認識されているものの、今でも広く使われており、語源の「クリーティ(動詞、意味:覆う、ウクライナ語:крити)」から派生したスラヴ諸語として一般的です。言葉や意味が変化するきっかけとなったプロセスは何十にも及びます。ロシア語に似ているようで、実は似ていない言葉はさらにたくさんあります。
借用語を取り入れると言語が乱れる?
借用語は、ある言語の話者が外国語話者と定期的に接触するすべての言語において自然な現象です。ウクライナ語が話されている地域は、常にその時代や地域の象徴的な文化と隣接し、密接に接触していました。このことは、今日のウクライナ人が話す言語に大きな影響を与えています。
借用語は、その言語に次から次へと入ってきて、一定の使用領域を埋めることがあります。例えば、古ウクライナ語が登場する以前、スラヴ祖語では、「王子(ウクライナ語:князь)」、「ヘルメット(ウクライナ語:шолом)」、「王(ウクライナ語:король)」、「剣(ウクライナ語:меч)」、「連隊(ウクライナ語:полк)」、「井戸(ウクライナ語:колодязь)」、「ニンジン(ウクライナ語:морква)」、「ラディッシュ(редька)」などといった単語をドイツ語から借用することによって、軍事・政治・家庭に関連する単語が補充されていました。その後、13世紀から14世紀にかけて、ウクライナ語は手工業や貿易の分野で使用されたドイツ語的表現で埋め尽くされました。例えば、「鍵屋(ウクライナ語:слюсар)」、「毛皮職人(ウクライナ語:кушнір)」、「車輪職人(ウクライナ語:стельмах)」、「見本市(ウクライナ語:ярмарок)」、「勘定(ウクライナ語:рахунок)」などといった単語です。
11世紀には、宗教的・教会的な分野で使われるギリシャ語の単語が(主に古スラヴ語を介して)ウクライナ語に入ってきました。16~17世紀には、学校で古代ギリシャ語が学ばれるようになり、数学、哲学、語彙、構文、演劇、合唱など、学問用語を表す多くのギリシャ語がウクライナ語に入ってきました。もちろん、古代文明とキリスト教はヨーロッパ文明の基礎を築いたので、ギリシャ語やラテン語はヨーロッパの言語に浸透し、それぞれ修正されながら各ヨーロッパ言語の間で使われています。特に、古代ギリシャ語とラテン語は、多くの言語において科学、技術、政治、文化に関するほとんどの言葉に含まれています。
ステップ地帯との密接な関係はテュルク語系からの借用語をもたらしました。クリミアとの密接な関係も影響し、コザークの時代にはすでにウクライナ語には多くのテュルク語系からの借用語が用いられていました。例えば、「スイカ(ウクライナ語:кавун)」、「カボチャ(ウクライナ語:гарбуз)」、「大釜(ウクライナ語:казан)」、「カーペット(ウクライナ語:килим)」、「納屋(ウクライナ語:сарай)」などです。伝統的なコザーク語の語彙の中には、「コザーク」という単語そのものも含めて、実はテュルク語系の語彙が多かったのです。
イディッシュ語は、ウクライナ語の形成に大きな影響を与えた言語のひとつです。一方では、「ボルシチ(ウクライナ語:борщ)」、「コザーク(ウクライナ語:козакフランス語によってコサックに変形)」、「ステップ(ウクライナ語:степ)」などの概念を表す単語がイディッシュ語を通じてウクライナ語からヨーロッパの各言語に伝わりました。そのため、ヨーロッパでは「borshch」ではなく「borscht」と呼ばれていますが、これはイディッシュ語でこのように発音されるためです。ウクライナ人はイディッシュ語から、「財布(ウクライナ語:гаманець)、詐欺師(ウクライナ語:шахрай)、アイロン(ウクライナ語:праска)、屋根付き玄関(ウクライナ語:ґанок)、叫び声(ウクライナ語:ґвалт)などといった単語を借用しました。そして、最も重要なのは、イディッシュ語の影響を受けて、ґという音がウクライナ語に戻ったことです。かつて、このスラヴ祖語の音はウクライナ語からほとんど消え去り、кに対応する硬音だけが残っていました(例えば、кと綴られてもяґби(ヤーグブィ)と発音する場合)。その後、イディッシュ語、ドイツ語、その他の言語からの借用語の中で、ґという音がウクライナ語に戻りました。メレティー・スモトリツィキーは文法を作成する際に、この音を伝える文字をギリシャ語から借用しました。
同時に、ウクライナ語には、ポーランド語、ドイツ語、ハンガリー語、ルーマニア語などといった多くの西側諸国からの借用語が入ってきました。
現在、ウクライナ語がどの言語から最も多くの単語を借用しているかは、想像に難くありません。現在、世界の言語のほとんどに影響を与えている言語です。ビジネス、教育、テクノロジーなど、これらすべての分野では英語の単語が溢れています。「スマートフォン(ウクライナ語:смартфон)」、「キャッシュバック(ウクライナ語:кешбек)」、「クリエイティブ産業(ウクライナ語:креативні індустрії)」、「クラウドファンディング(ウクライナ語:краудфандинг)」、「Eコマース(ウクライナ語:онлайн-торгівля)」、「イベント(ウクライナ語:івент)」、「ITクラスター(ウクライナ語:IT-кластер)」、「ブロックバスター(ウクライナ語:блокбастер)」など、どれもウクライナ語ではほとんど同じに聞こえます。そのすべてが文語化されているわけではありませんし、これから先もそうならないでしょう。語彙の借用が自然な現象であることはすでに述べましたが、新しく入ってきた単語が飛び交う会話は理解しにくいことがあります。そのため、ウクライナ人がよくやるように、特定のウクライナ語や 古い借用語の語根をもとに同等の言葉を探す、というのは理にかなっています。このように、「クラウドファンディング(ウクライナ語:спільнокошт)」や「リーダー(ウクライナ語:очільник)」などを表すオリジナルのウクライナ語だけでなく、「空港(ウクライナ語:летовище)」、「期限(ウクライナ語:реченець)」、「環境(ウクライナ語:довкілля)」、「写真(ウクライナ語:світлина)」などを意味する言葉のように、ウクライナ語の深い部分から抽出された言葉もあります。
ウクライナ語は他の言語に単語を「貸した」のでしょうか?
もちろん、ウクライナ語から他の言語に渡った言葉もあります。例えば、「ボルシチ」、「ヴァレーニキ」、「フリヴニャ」、「ヴィシヴァンカ」、「バンドゥーラ」、そして特に興味深いのは「マイダン」です。「マイダン」という言葉は、アラビア語やテュルク語を通じてペルシア語から借用されたものです。しかし、ウクライナの歴史における重要な政治的出来事、つまりオレンジ革命やウクライナ人が「マイダン」と呼ぶ尊厳の革命のために、この言葉は外国人によってウクライナと結びつけられ、その場所で起こった革命を表しています。また、ポーランド語、ロシア語、ハンガリー語、ルーマニア語には、ウクライナ語からの借用語とされる単語がいくつかあります。
方言を軽んじて、言語の純粋性を求めるべきでしょうか?
言語の純粋性という概念は相対的なものです。なぜなら、文語というのは取り決めの問題であり、言語学者たちはある単語や形式を正しいと考え、他のものを正しくないと決めているからです。すでに述べたように、ウクライナの文語はキーウ・ポルタヴァ方言、すなわち中上ドニプロ方言に基づいていますが、上ドニステル方言など、他の方言の影響を大きく受けています。
一般に、科学的な観点からは、方言には隠語や俗語も含まれます(この場合、社会方言と呼ばれます)。このセクションでは、地域方言、つまり、地域ごとの言語の特殊性について説明します。
学者たちは、ウクライナ語を北部(またはポリッシャ)、南西部、南東部の3つの方言に分類しています。方言(ディアレクト)は下位方言(サブディアレクト)に細分化されます(3つの方言の中で下位方言は15しかありません)。下位方言の中にも複数の種類があります(それぞれの村や都市に独自の方言が存在しています)。そして、誰もが自分の個人言語(イディオレクト)を持っています。
ウクライナ方言マップ ソース:Wikipedia
北部の方言には古い特徴が残っています。チェルニヒウ州北部やキーウ州の村では、キーウ・ルーシ時代以前に使われていた音や言葉を耳にすることがあるのです!このような村々では、キーウ・ルーシの時代には使われていたуо(куонь:馬, вуоз:荷車)とie(хліеб:パン, піеч:ストーブ)という二重母音が今でも耳にすることができます。しかし、それ以外の地域では、17~18世紀には、「馬(ウクライナ語:кінь)」、「荷車(ウクライナ語:віз)」、「パン(ウクライナ語:хліб」、「ストーブ(ウクライナ語:піч)」というように、徐々に変化していきました。
しかし、カルパチア山脈周辺の方言、例えばフツリ方言やザカルパッチャ方言にも、多くの古い特徴が残っています。例えば、移動の方向を示す場合、「何かへ」を示す際に用いる前置詞до + 名詞生格(чогось)の用法ではなく、д’чомусьのようにд’ + 名詞与格(чомусь)でこれを表現します:川へ:д’ріці、小屋へ:д’хижіなど。また、単語の複数形には-oveという語尾が使用されます:синове:息子たち、など。または、ウクライナ語で仮定法を表す際に使用するбиが人称や数によって変化します:я робив бим:私はしただろう、ти робив бись:あなたはしただろう、ми робили бисьме:私たちはしただろう、など。
ある地域の方言には、近隣の言語から借用された言葉が使われているとよく言われます。例えば、ザカルパッチャ地方では、街のことを「ヴァロシュ(ザカルパッチャ方言でのウクライナ語:варош)」と呼びます。なぜなら、ザカルパッチャ地方のすぐ左隣に位置するハンガリーでは、街はハンガリー語でvárosであるからです。ベッサラビアでは、トウモロコシを意味するルーマニア語が使われています。ベッサラビア方言でのウクライナ語では、「パプショーヤ(ウクライナ語:папушоя)」がトウモロコシを表し、これはルーマニアの村々で使用されているトウモロコシを表す単語であるpăpuşoiの影響を受けているとされています。しかし、ある単語や形が、国境ができるずっと以前から特定の地域に存在していて、その地域が2つの異なる国家に属するようになった、ということはよくあることです。その単語や形は、ある国家の文語に残され、別の国家の方言に残り、また別の形に置き換えられました。
なぜディアスポラの言葉はこんなにも違うのでしょうか?
18世紀半ばにはすでに、プレショウ地方北東部(現在のスロヴァキアの北東部)とザカルパッチャ地方のコミュニティ全体が、貧困と土地不足から逃れてバルカン半島に移住しました。
1870年代から第一次世界大戦が始まるまで、ウクライナ人は北アメリカや南アメリカ、シベリアへ集団で渡りました。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の20年間に、ウクライナ人は再びアメリカやカナダに移住しましたが、多くの場合はヨーロッパ諸国に移住しました。第二次世界大戦後は、オーストラリアとニュージーランドが移住先に加わりました。
アメリカのウクライナ人ディアスポラにおける新聞「スヴォボーダ(自由、ウクライナ語:Свобода)」 ソース:新聞アーカイブ
19世紀後半から20世紀前半のウクライナ語を取り巻く状況を想像してみてください。ウクライナ人が当時のハリチナ地方出身の学校の先生と出会ったとしたら、もちろんお互いに理解しあえるでしょうが、現代のウクライナ人にとっては聞きなれない単語も多いでしょうし、たとえ聞き慣れた単語であっても、その発音には驚くかもしれません。
そしてそれは、ハリチナ出身であれ当時のウクライナにおける他の地域の出身であれ、ウクライナ人が移り住んだ土地に持ち込んだ言葉なのです。ウクライナでは、言語はソヴィエト化、脱ポーランド化、ロシア化といった方向に変化しました。ロシア語への完全な移行だけでなく、ウクライナ語の特定の単語がロシア語に近いものに置き換えられたり、この地域特有の新たな実態が言語に影響を与えたりしました。その結果、一方では移住者の言語がそのまま保存され、他方では現地の言語からの借用語によって補完されたのです。そのため、ウクライナ人にとっては、ディアスポラの言葉は奇妙に思われ、ディアスポラにとっては、ウクライナ人は完全にロシア化していると考えられることもあります。しかし、実際には、外国のウクライナ語には古い表現が多く、ウクライナ国内で話されているウクライナ語とは異なる借用語がいくつか含まれています。
スルジクという言語はどのようにして生まれたのですか?
ロシア語とウクライナ語は隣国同士の言語であり、互いに影響を与え合っていたことは間違いありません。ロシア語には多くのウクライナ語的な表現がありますが、18世紀初頭から、当時の帝国の言語が植民地の言語になるという特殊な事情により、ロシア語がウクライナ語に影響を及ぼし始めました。つまり、帝国の言葉が植民地の言葉になったのです。皇帝に従事する役人や兵士になったウクライナ人は、ロシア語の語彙を取り入れました。ロシア行政がウクライナの都市で機能し始めると、ロシア人が大量にウクライナに流入し、地域住民の言語にも影響を与えました。ウクライナではディグロシアが形成されたのです。行政、教育、文化分野においてはロシア語が使われ、日常生活ではウクライナ語が使われていました。
19世紀から20世紀にかけて、当時ロシア帝国に属していたウクライナの領土の住民の3分の2は、再定住政策によってロシア人とロシア化されたユダヤ人でした。農民の大半はウクライナ人でした。工業化が始まり、農民が一斉に都市に移り住むと、彼らはより一般的に使用されていた言語に切り替え、ウクライナ語は村の言葉でロシア語は都市の言葉、というような対立構造が形成されました。ウクライナ語を使用していた農民たちにとってロシア語はまったく違う言語だったので、農民たちはロシア語をうまく話せず、その結果ウクライナ語とロシア語が混ざりました。こうして生まれたのが混合言語であるスルジクです。
19世紀から20世紀にかけて、ウクライナにおけるディグロシアは非常に顕著でした。ウクライナが独立した後も、ロシア語が消滅することはなく、ロシア人やロシア化したウクライナ人は、「より権威のある」言語として、あるいは単なる習慣としてロシア語でコミュニケーションを取り続けました。さらに、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアはロシア語で埋め尽くされ続けました。1990年代には、ほとんどのウクライナ人がОРТ(「チャンネル1」)やРТР(「ロシア1」)など、モスクワから配信されるテレビチャンネルを視聴していました。そのため、スルジクには好条件が揃っていました。現地のウクライナ語に現地のロシア語が混じり、ロシアからのロシア語も盛んに混じっていたのです。
ウクライナ語が行政、教育、科学、そしてほとんどのメディアにおいて使用される言語となった今日、ウクライナ語はますます「権威のある」言語となり、スルジクは教養のない人々の言語として残っています。しかし、植民地状態と様々な言語が混在する状態をから抜け出した他の国々の経験を見てみると、ウクライナ語がメディア、教育、行政、サービス分野といった公共の場で使われるようになればなるほど、スルジクの居場所は少なくなっていくでしょう。
作家や教養のある人たちが、SNSへの投稿をスルジクでするのはなぜですか?
スルジクはユーモアにもよく使われます。メディアではほとんど見かけませんが、SNSではそのような投稿をよく見かけることができます。教養のあるウクライナ人(多くの場合、作家、編集者、ジャーナリスト、翻訳者)は、読者を一種の「信頼の輪」に誘うかのように、スルジクで話したり、記事を書いたりします(もちろん、彼らは文学的な言葉を用いていますが)。スルジクで育った人も少なくなく、スルジクはある人にとっては故郷を連想させます。スルジクは時に、家庭的な雰囲気、安らぎ、信頼感を醸し出します。ミハイロ・ブリニフの「ウクライナ文学傑作集(ウクライナ語:Шидеври вкраїнської літератури)」や「世界文学傑作集(ウクライナ語:Шидеври світової літератури)」など、すべてスルジクで書かれた本も、同じような雰囲気で書かれたものです。もちろん、これはウクライナの郊外の電車で耳にするような言葉ではありません。用語や英語的な言い回しが多く用いられていますが、それでもスルジクです。文学におけるスルジクについては、ウクライナ文学の解説記事をご覧ください。
スルジクは別の言語や方言ですか?
いいえ、そうではありません。
スルジクに属するように見える単語は、実際には方言の一部です。しかし、スルジク自体は言語でも方言でもありません。なぜなら、言語にも方言にも、たとえそれが自然発生的に確立されたものでなく明文化されていないものであっても、規範があるからです。一方、スルジクには規範がなく、人は自発的にどちらかの言語から言葉を選びます。
一時期、多くのウクライナ人が、政治的な状況からロシア語に切り替えました。ロシア語や他の言語からウクライナ語に切り替えた人もいたのでしょうか?
そのような例はたくさんあります。ロシア人のマリヤ・ヴィリンシカはウクライナ語を学び、マルコ・ヴォウチョクというペンネームでウクライナの作家になりました。フリホーリー・クヴィトカ=オスノヴヤネンコは、1820年代から1830年代にかけてロシア語で戯曲を書いていましたが、1830年代後半にはウクライナ語で書き始め、ウクライナ語の芸術的可能性を「提唱」しました。ユダヤ人の家庭に生まれたオレーナ・クリロは、著名なウクライナの言語学者となり、スターリンの弾圧を受けました。オレクサンドル・オレシはウクライナ人の家庭に生まれたものの、常にウクライナ語を話していたわけではありませんでした。しかし、ポルタヴァでのコトリャレウシキーのモニュメントの除幕式で、パナス・ミールニー、レーシャ・ウクライーンカなどの文化人と出会い、完全にウクライナ語に切り替えることを決意しました。子供の頃、オレーナ・テリーハは家族の中ではほとんどロシア語を話していましたが、ロシアの専制君主主義者の一人が彼女の第二言語であるウクライナ語を「犬の言葉」と呼んだとき、彼女はそれに強く反発し、一貫してウクライナ語を話すようになりました。
ポルタヴァにおけるイヴァン・コトリャレウシキーのモニュメントの除幕式(1903年) 写真:イヴァン・コトリャレウシキーポルタヴァ文学記念館のアーカイブより
現在でも興味深い例があります。2014年までロシア語だけで執筆していたドネツィク出身の作家ヴォロディーミル・ラフェイェンコは、故郷が占領された後にキーウに渡り、ウクライナ語で小説が書けるようにウクライナ語を勉強し、2019年にウクライナ語で小説「モンデグリーン(ウクライナ語:Мондеґрін)」を出版しました。この本の発表会で、彼は衝撃的な話をしました。後に判明したことですが、彼の祖母の一人は純粋なロシア語を話し、ウクライナ語を話したことはありませんでしたが、村で生まれ、ウクライナ語を話す家庭で育ちました。街に出ると、クラスメートは彼女のたどたどしいロシア語を笑いました。彼女はその誰よりも上手にロシア語を学ぼうと決めました。そして、当時の状況によって生まれた羞恥心のためにウクライナ語から離れながら、それをやり遂げたのです。ヴォロディーミルのもう一人の祖母もロシア語を話していました。幼少期にウクライナ語を話していたことは、彼女が大人になってからペット(犬や猫)に話しかけるときだけウクライナ語を話していたことからも明らかです。
ウクライナに住んでいたベラルーシ人のミハイロ・ジズネウシキーと、ウクライナで生まれ育ち、死の数日前にマイダンでシェフチェンコの詩を読んだアルメニア人のセルヒー・ニホヤンがマイダンで亡くなったとき、ウクライナが多民族国家であることが改めて明らかになりました。クリミア・タタール人、ユダヤ人、ロシア人、ブルガリア人、アルメニア人、ガガウズ人、ポーランド人、そしてウクライナの市民である他の民族の人たちは、皆ウクライナ人なのです。
歴史の大きな変動により、多くのウクライナ人にとってウクライナ語は必ずしも祖先の言葉ではなく、それぞれの家族の物語も異なっています。しかしながら、ウクライナ人が子供たちのための言語としてウクライナ語を選択し続けることを願っています。この土地に住んでいた何世代もの人々の言語であるだけでなく、未来の人々のための言語でもあるのです。そして、ウクライナ語を話すウクライナは、ウクライナ自身の団結によってウクライナは外敵から身を守ることができることを念頭に置く必要があるのです。