ウクライナ正教会:モスクワからの独立の過程

Share this...
Facebook
Twitter

ウクライナの教会は、古代から現在に至るまで多くの困難に直面してきました。その歴史は混乱していて複雑に見えるかもしれませんが、17世紀後半以降ウクライナの教会はモスクワそしてソ連の占領下という暗闇の中にありました。

*
この記事にはロシアのウェブサイトへのリンクが含まれており、VPN経由で閲覧する必要があります。

帝国主義と共産主義の支配下で、ウクライナ人やウクライナ領土内の他の民族共同体は、宗教および表現の自由、またいかなる文化的アイデンティティも否定されてきました。この地域で最も歴史のあるウクライナ正教会は迫害され、ロシア化されました。ウクライナの教会が復活し始めたのは、1991年にウクライナが独立を宣言してからであり、強制的に押しつけられ、「ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系(実質的にはロシア正教会)」として代表されるロシア正教会と共存していました。

ウクライナは本当にキリスト教と教会を禁止しているのか?

2022年にロシアが本格的にウクライナに侵略を開始した後、政府と市民社会の代表者は、宗教を含む生活のさまざまな側面におけるロシアの影響を根絶し始めました。一方、クレムリンはロシア正教会とともに、数十年にわたって世界中の正教徒たちの宗教環境を支配するプロパガンダ工作を行ってきました。彼らは、ウクライナが「キリスト教を禁止」し、「信者を迫害」していると西側諸国に信じ込ませようとしています。

この嘘は、ウクライナが「キリスト教を禁止するためにアメリカの税金を使っている」と主張するアメリカの大統領選挙候補者ヴィヴェック・ラマスワミによって広められています。

ウクライナ独立後の正教会を取り巻く状況
1992年から2018年までは、ウクライナ国内に3つの正教会が活動している状況でした。その3つとは、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系、ウクライナ正教会・キーウ総主教庁系、ウクライナ独立正教会を指します。 2019年1月5日、コンスタンティノープル全地総主教であるバルトロメオ1世が、トモス(後述)に署名してウクライナ教会の独立を宣言しました。これにより、ウクライナ正教会・キーウ総主教庁、ウクライナ独立正教会と、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系の一部が統合され、新生ウクライナ正教会が誕生しました。

本当は何が起きているのでしょうか?ロシアによる戦争中の国家安全保障の一環として、ウクライナ最高議会(ヴェルホーヴナ・ラーダ)はロシアと関係のある宗教団体の活動を禁止しました。この法律の本質は、教会組織が侵略国家とつながっていることが証明された場合、裁判所によってウクライナでの活動が停止される可能性があるということです。

ここでは、宗教を信仰する個々の権利を制限することを指しているわけではありません。なぜなら、個々の教会の代表者や組織に対する訴訟は、教会そのものや宗教全体の禁止を意味しないからです。国家安全保障に対する脅威について、そしてウクライナの法律に違反している点がここではポイントとなっているのです。ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系の関係者の中には、どの国の法律でも最も厳しい部類に入る反逆罪に問われている者もいます。

ウクライナの軍の聖職者

アメリカ国務省が毎年発表している「国際自由信仰報告書」によると、ウクライナ人の62.7%が正教徒、10.2%がウクライナ・ギリシャ・カトリック、3.7%がプロテスタント、1.9%がローマ・カトリック、さらに8.7%が「ただのキリスト教徒」と自称しています。合計すると、ウクライナのキリスト教徒は約3,790万人でした。

ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会
(Українська Греко-Католицька Церква / УГКЦ) ウクライナにおける正教会(後述)に加えて、ウクライナにはウクライナ・ギリシャ・カトリック教会が存在します。元々、ギリシャ・カトリックは、当時ポーランド・リトアニア共和国下にあった現在のウクライナ・ポーランド・ベラルーシのカトリック教会と正教会が合わさることとなった1596年のブレスト合意により誕生しました。ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会は、ウクライナの教会史において重要な役割を果たしてきました。

残りの人口は、ユダヤ教徒、イスラム教徒、その他の宗教の信仰者、またはどの宗教にも属さない人々で構成されています。その割合はキリスト教徒よりはるかに少ないものの、約560万人をにのぼります。

このトピックをより深く掘り下げるためには、ウクライナにおけるキリスト教の歴史と、なぜウクライナ人がモスクワ総主教庁系の影響を排除しようとしているのかを理解することも重要です。ウクライナ・カトリック大学教会史研究所所長のオレフ・トゥリーと研究員のアナトリー・バビンシキーの協力を得て、ウクライナにおける教会組織の形成の歴史と両者の対立についてこの記事では見ていきます。

ペトロ・アンドルーシウ、絵画「キーウ・ルーシの洗礼」

ウクライナにキリスト教はどのように伝わったのか?

キーウ府主教区(ギリシア語:μητρο-母、πολίτης-都市)は、「キーウ・ルーシの洗礼」の際に設立され、現在のベラルーシとロシアの領土に誕生したすべての教区の基礎となりました。

このことは、モスクワがウクライナ人とベラルーシ人のための教会であるというロシアのナラティブに反証するものです。

教区
(イェパールヒヤ、ウクライナ語:Єпархія) 東方キリスト教、特に正教会とウクライナ・ギリシャ・カトリック教会における教会管区単位を指します。

キリスト教は、クリミアや黒海北部のギリシャ植民地、ビザンツ帝国や他のキリスト教国との交易を通じて、現在のウクライナの領土に初めて伝わりました。

9世紀後半、スラヴ系キリスト教の布教者であり教育者であったキリルとメトディウス兄弟とその弟子たちの布教活動は、ウクライナの地と結びついています。キリルとメトディウスは、最初のスラヴ語のアルファベットとスラヴ語に翻訳された典礼書の最初の著者です。

ウクライナが正式に洗礼を受ける以前から、アスコルド公・オレフ公・イーホル公の時代には、キーウ・ルーシでキリスト教が盛んに広まっていました。957年10月17日~18日の夜、王女オリハはコンスタンティノープルで自ら洗礼を受け、ドイツから主教をキーウに招きました。

988年、キーウのヴォロディーミル大公が洗礼を受け、キリスト教をキーウ・ルーシの国教と宣言しました。同時に、コンスタンティノープル総主教庁の一部としてキーウ府主教区が設立されました。

府主教区
(メトロポーリヤ、ウクライナ語:Митропо́лія) キリスト教において、府主教の聖職上の権限下にある地域を指します。通常、府主教区に統合されたいくつかの教区から構成されます。

モスクワ総主教庁はどのように誕生したのか?

キーウ・ルーシの政治的・宗教的エリートたちは、ビザンツ帝国の影響を受けながら、聖座使節団の交流や、キーウの王子や王女がヨーロッパ諸国の支配者と婚約したことでもわかるように、ラテン語圏の西側諸国との交流に積極的でした。

エルモゲン(モスクワ総主教)

府主教区を分割し、北部の教区をキーウから分離させようとした最初の試みは、1169年にキーウを占領・破壊・略奪したスーズダリ公アンドリー・ボホリュブシキーの治世の時でした。盗まれた品々の中には、現在のヴラジーミルにあった「ウラジーミルの生神女」のイコン(奇跡のイコンと信じられている)も含まれています。

1438年から1439年にかけて開催されたフィレンツェ公会議において、「キーウおよびルーシの府主教」であったイシドール府主教がローマ教会との統一を支持しましたが、その後キーウとモスクワの府主教区が分裂していくのです。

モスクワ総主教庁はどのように自らを形成したのか?

モスクワでは、東方教会と西方教会を統一しようとしたフィレンツェ公会議の決定が否決されました。1448年、東方正教会の中心であるコンスタンティノープル総主教庁の同意なしに、モスクワは独自の府主教としてリャザンのイオナを選出しました。教会の統一と大元の教会(コンスタンティノープル総主教庁)に反対する中で、モスクワを「第三のローマ」とする考えと、その「特別な」使命に対する主張が生まれました。

「第三のローマ」
これは、歴史のさまざまな時代に栄えたキリスト教の中心地を指す言葉です。第一はローマ、第二はコンスタンティノープルです。モスクワは、これらの中心地の後継者であるというイデオロギーを作り上げました。

1448年から1589年までモスクワ府主教区は、キリスト教世界の他の地域から孤立していました。そのため、他の東方諸教会とは典礼が異なっていました。

1589年、コンスタンティノープル全地総主教が寄付を求めるためにモスクワに来訪したことを利用し、ツァーリ政権がモスクワに新しい総主教庁の設立を宣言させたことで、モスクワ総主教庁の独立が認められました。しかし、キーウ府主教区はモスクワではなく、コンスタンティノープルの支配下にありました。

ボフダン・フメリニツキーのキーウ入場(1649年)

ウクライナ正教会に対するロシア化はどのようになされたのか?

ボフダン・フメリニツキーが率いた民族解放戦争(1648年~1657年)の出来事が、キーウ府主教区の発展の転機となりました。ヘトマンはモスクワに味方を見出すことを期待しましたが、後にこの同盟はウクライナの国家・政治・文化・宗教面で悲惨な結果をもたらしました。

1654年のペレヤスラウ協定(現在のウクライナ領土における当時の国家とモスコヴィヤ(ロシア・ツァーリ国)との同盟)以降、ウクライナの土地は徐々に自治権を失い、最終的にはモスコヴィヤの全面的な影響下に置かれるようになりました。

ボフダン・フメリニツキーが率いた民族解放戦争(1648年~1657年)
中世のポーランド・リトアニア共和国(ポーランド王国とリトアニア大公国の連合体)の支配からウクライナの人々を解放することを主な目的として行われました。

キーウ府主教区の聖職者たちの反対にもかかわらず、1686年、モスクワ総主教庁はキーウ府主教を任命する権利をコンスタンティノープル総主教庁から獲得し、キーウ府主教区を支配下におきました。

コンスタンティノープルでは、総主教たちがオスマン帝国の下で困難な状況にあったため、この問題は多額の献金によって「決定」されました。コンスタンティノープルのヴァルソロメオス総主教が、遥か以前の前任者であるディオニシウス4世のこの悪名高い決定を最終的に覆したのは、2018年のことでした。

なぜモスクワ総主教庁はキーウを必要としたのか?

モスクワ総主教庁に組み込まれた当時、キーウ府主教区は、主に西欧の教育や宗教文化の影響により、社会生活や教会活動においてより高いレベルの発展を遂げていました。そのため、キーウ府主教区は即座にモスクワの教育人材の供給源となりました。

17世紀後半にモスクワ総主教庁で行われた教育と典礼に対する改革は、ウクライナ人とベラルーシ人の神学者がいなくては不可能でした。しかし、時が経つにつれ、キーウ府主教区はモスクワ総主教庁の一般的な大司教区となり、そのユニークな特徴や内部の自治権は徐々に破壊されていきました。

ピョートル大帝

ロシア帝国はいかにして教会を政治的影響力をもつ道具としたのか?

ピョートル大帝の時代、モスクワ総主教庁は廃止され、代わりにロシア教会を統治する「聖シノド(教会会議)」が登場しました。それは基本的に国家機関の一つでした。同時に、モスコヴィヤはロシア帝国と改称され、古代ルーシを継承することに対する主張が正当化されていきました。

18世紀から19世紀にかけて、ロシア国家と教会当局はウクライナの教会のロシア化を強化し、20世紀半ばにはキーウ府主教はすべてロシア人となりました。

キーウ・ルーシの継承に対するロシアの主張
ロシアが歴史のさまざまな場面において、ヨーロッパとの接点を作り出して帝国的野心を正当化するために用いてきた最も広まった歴史神話のひとつです。実際には、ルーシの中心はキーウであり、当時の現代ロシアの領土はザリッシャと呼ばれていました。

1937年にソ連当局によって爆破されたキエフの聖ミハイル大聖堂跡

ウクライナ独立正教会Українська Автокефальна (самостійна) Православна Церква / УАПЦはいつ、なぜ誕生したのか?

1917年のボリシェヴィキ革命後、共産党新政権は宗教を認めず、大規模な弾圧を開始しました。教会は破壊され、聖職者は殺されました。

しかし、この時、ウクライナの聖職者の間で、宗教活動のウクライナ化とモスクワ総主教庁からの分離を求める運動が生まれました。

1917年から1921年にかけて、様々な会議や協議会が開かれ、その結果、1921年にウクライナ独立正教会が宣言されましたが、ウクライナ独立正教会がモスクワ総主教庁から独立したものである点について国際的に当時は認められていませんでした。

1921年、キーウで開催されたウクライナ独立正教会第1回正教会評議会のウクライナ全国総会

モスクワ総主教庁は、ウクライナの司祭と信徒の独立に対する志向と行動に極めて否定的な反応を示しました。1930年、ソ連共産主義政権はウクライナ独立正教会を解体しました。独立運動の指導者たちは弾圧され、殺害されました。

ドイツ占領下の1941年から1944年にかけての一時期、ウクライナ独立正教会の理念は再び復活し、ポーランド独立正教会の援助により多くのウクライナ人司教が任命されました。

しかし、ソ連軍の進撃に伴い、ウクライナ独立正教会の「第二世代」の司教たちは西側に移住し、この教会はディアスポラでのみ存在し続けました。

第二次世界大戦中、宗教弾圧政策はいくらか緩和されましたが、これは戦略的な目的によるものでした。このようにして、スターリンはソ連の国際的な権威を高め、ソ連国民の好意を得ようとしたのです。そのため、1943年にモスクワ総主教庁はその構造を修復することができ、教会の名称には「ロシアの~」という意味の形容詞である「российская」ではなく「ルーシの~」という意味の形容詞である「русская」という言葉が使われ、古代ルーシ全体を継承しているという主張を強調することになりました。

ソ連当局のロシア正教会に対する態度はいくらか軟化したものの、諜報機関はその内部活動と国際活動を綿密に監視していました。上級聖職者の多くはKGBによって諜報員としてリクルートされました。

国家保安委員会
ソ連の政府機関で、諜報・防諜・ナショナリズム・反体制・反ソ活動対策を主な任務としていました。ロシアでは、KGBはFSB(連邦保安局)に引き継がれました。

ウクライナ西部がソ連に併合された後、ソ連の諜報機関は1946年にリヴィウで見せかけの教会会議を組織し、そこでウクライナ・ギリシャ・カトリック信者のモスクワ総主教庁への編入を発表しました。ザカルパッチャ地方では、1949年に同様の強制的な「ユニエイト派のロシア正教会への統合」が行われました。

ユニエイト
正教会側がウクライナ・ギリシャ・カトリック教会に名付けた蔑称

当時から1989年まで、ソ連のウクライナ・ギリシャ・カトリック信者は地下に潜ることを余儀なくされました。彼らは合法的にディアスポラでのみ存在していました。

ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系(Українська Православна Церква Московського патріархату / УПЦ МП)とウクライナ正教会・キーウ総主教庁(Українська Православна Церква Київського патріархату / УПЦ КП)の違いとは?

ソ連のペレストロイカ(1985~1991年)が始まると、ウクライナのキリスト教徒がモスクワ総主教庁系中心の「統治」から脱却したいという機運がウクライナで再燃しました。

ペレストロイカ
ミハイル・ゴルバチョフが前任者の全体主義的支配の危機を克服するために行った改革期間

社会的変化が避けられないことを理解したモスクワ総主教庁は、1989年にロシア正教会のウクライナ教会管区に対して、「ウクライナ正教会」と呼称する権利と同様に、その内部活動における自治権を認めることを決定しました。しかし、モスクワは正教会のウクライナの教区に対する権力を維持しようとしたため、これらの変更は表向きのものに過ぎませんでした。

ウクライナのロシア正教会のこの部分は現在、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系またはウクライナのロシア正教会と呼ばれています。一方で、この教会の関係者たちはモスクワとの関係性についてその信者たちから隠そうと躍起になっています。

ロシア正教会の公式文書には、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系が、独立した機関であるとされているにもかかわらず、ロシア正教会の構造的単位の一つであることを疑う余地はありません。独立した教会組織として、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系は世界のどの正教会からも認められておらず、その司教はロシア正教会の司教とみなされています。

ウクライナ正教会・キーウ総主教庁の成り立ちとは?

ソ連が崩壊した1989年、ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会が潜伏を脱しました。ロシア正教会のウクライナ社会への影響力が著しく弱まりました。

同時に、ウクライナ西部の親ウクライナ派の司祭たちが、モスクワ総主教庁の管轄からの離脱を宣言し、ウクライナ独立正教会の復活と、ディアスポラにいる関係者たちとの関係の再構築を宣言しました。

このような正教徒の独立を支持する機運により、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系の指導部も1992年にモスクワ総主教庁に独立を申請しました。しかし、この申請は却下され、当時ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系のトップであったフィラレート(デニセンコ)府主教は退任を余儀なくされました。

これを受けて1992年、フィラレート府主教をはじめとするウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系の司教のうち数人は、ウクライナ独立正教会の一部と合併し、ウクライナ正教会・キーウ総主教庁の設立を発表しました。

ウクライナ正教会・キーウ総主教庁
1686年までコンスタンティノープル総主教庁配下あった「キーウおよび全ルーシの府主教」の後継者として、独立した教会として自らをみなしました。

フィラレート府主教

1997年、モスクワ総主教庁はフィラレート府主教を、「キーウ及び全ルーシ・ウクライナの総主教」を名乗る「挑戦的な」分裂主義者とみなし、断罪しました。それから21年後の2018年10月11日、コンスタンティノープル全地総主教であるバルトロメオ1世はフィラレートの訴えに応じ、断罪を解除し、彼の聖職者としての位階を回復しました。

同時に、ロシアがウクライナを攻撃した2014年以降、いわゆるウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系のトップであるオヌフリー首座府主教は、物議を醸す行為を繰り返しています。例えば、2015年5月9日、ロシアの侵略から祖国の独立性を守ったウクライナの英雄たちの記憶を称えるために、オヌフリーは「立ち上がり」ませんでした。また、2022年8月20日には、ウクライナの主要な歴史的教会の一つであるキーウ・ペチェールシク大修道院で、ロシアの捕虜を祝福しました。ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系のトップは、彼らの長寿を祈り、ウクライナ人を殺害していた占領軍に祈祷書とチョコレートを贈りました。

ウクライナ正教会独立までの道のりとは?

2000年代初頭、ウクライナ政府と2つのウクライナ正教会(ウクライナ独立正教会とウクライナ正教会・キーウ総主教庁)は、ウクライナ正教会を統合し、コンスタンティノープル全地総主教にウクライナ正教会の独立を認めてもらう可能性を模索し始めました。教会の指導者も政治家も同様の働きかけを行いました。

キーウの聖ミハイル大聖堂

最終的に、何年にもわたる交渉の末、2018年にコンスタンティノープル全地総主教は、ウクライナ教会の独立性を奪った1686年の宣言を取り消し、ウクライナにおける統治を復活させました。こうしてウクライナ正教会はモスクワではなく再びコンスタンティノープル総主教庁に従属することになりました。

その後、2018年にはウクライナ正教会における全教会のトップによる統一評議会を招集し、ウクライナ正教会(Православна Церква України / ПЦУ)を設立しました。

この新しいウクライナ正教会にはウクライナ正教会の全司教が含まれましたが、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系側から評議会に出席したのは各教会のトップ2人のみでした。

ウクライナ正教会のトモスに署名するコンスタンティノープル全地総主教であるバルトロメオ1世

2019年初め、ウクライナ正教会はコンスタンティノープルからトモスを受領しました。その後、この新しいウクライナ正教会はギリシャとキプロスの教会、およびアレクサンドリア総主教によって承認されました。

トモス
教会組織や教義に関して、正教会の教会会議および(または)トップによって出される勅令。 トモスの授与は、多くの場合、新しい地方教会が他の正教会からの独立を認められ、かつ正教会と一体であることを意味します。

ウクライナ正教会の独立についてロシアはどのような反応を見せたのか?

興味深いのは、ウクライナ正教会が独立することについて議論する段階においても、ロシア当局がロシア安全保障理事会の代表との会合を招集したことです。この懸念は、政治的影響力の手段として教会を重視するロシアの姿勢を明確に示しています。クレムリンは、あらゆる可能な手段を通じて「ロシア世界(ルースキー・ミール)」を推進しようとしています。

ロシア正教会は、現在もウクライナに存在する自身の支部、つまりウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系を利用して、ウクライナに「ソフト面での影響力」を及ぼしています。この目的のために、彼らは社会的にベストな代表者である聖職者に対する信者からの高い信頼を利用しているのです。

なぜモスクワ総主教庁とロシア正教会は危険なのか?

ロシア正教会は長年にわたり、ロシアに関する帝国主義的なナラティブを広め、特にウクライナ・ベラルーシ・モルドヴァに対してロシアの影響下に戻る必要性を説く「教会エージェント」を養成してきました。

この計画の成果は、多くの聖職者が反ウクライナ的な立場をとっているウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系において特に顕著です。そのような「聖職者」の不祥事については、定期的にメディアで暴露されています。

武器の製造や密売、児童虐待、2014年以降のロシアによるウクライナに対する戦争への援助や資源支援などは、モスクワ総主教庁の「功績」の一つです。

ロシア正教会の上層部は、一般的にクレムリンやプーチンとつながっています。例えば、モスクワのキリル総主教とその取り巻きは、ウクライナに対する侵略を支持し、ウクライナの子どもたちの拉致に関与したことで、民主主義世界で厳しい制裁を受けています。

ロシア正教会の上層部は、一般的にクレムリンやプーチンとつながっています。例えば、モスクワのキリル総主教とその取り巻きは、ウクライナに対する侵略を支持し、ウクライナの子どもたちの拉致に関与したことで、民主主義世界で厳しい制裁を受けています。

ロシアによる侵略を支持している例のひとつが、アンドレイ・トカチョフです。彼はキリスト教の教えなどを説く代わりに、ソ連時代の愛国軍事的政治将校の精神を反映した説教を行っています。15歳でモスクワのスヴォロフ軍事学校に入学し、卒業後、軍事研究所特別プロパガンダ学部で学びました。

アンドレイ・トカチョフは、「正教会」の観点から「ロシア世界」のイデオロギーを宣伝している一人です(EUとウクライナから制裁を受けている)。

あるビデオで、トカチョフはウクライナにおけるロシア軍の行動を正当化し、それを「終末戦争」「浄化」と呼んでいます。別のビデオでは、祈りを読みながら、砲撃システム「グラード」によるウクライナ人に対する爆撃を露骨に呼びかけました。

全面戦争中の今、ロシア軍がウクライナ中の教会や宗教施設(ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系に属しているものも含む)を破壊しているのは非常に逆説的です。

モスクワ総主教庁の活動がもたらす潜在的な脅威と結果を鑑み、ウクライナ最高議会は2022年3月29日、ウクライナにおいてロシア正教会を禁止する法案を登録しました。この法律案が提出された理由は、ウクライナの領土一体性を保持するためです。文化的占領は、ロシアが軍事侵略を開始する前に最初に取る手段なのです。このことは、ウクライナの偽情報専門調査団体「ディテークトル・メディア(ウクライナ語:Детектор Медіа)」の調査でも確認されているように、ウクライナ人自身にとっても明白なことなのです:

-こうしたプロパガンダの手法はすべて、ウクライナにおける宗教的な内紛という幻想を他国とウクライナ人の双方に抱かせ、宗教的な境界線に沿って双方を分裂させるためのものです。しかし、実際には、これらはすべて巧妙に仕組まれたモスクワによるパフォーマンスなのです。最近の世論調査は、ウクライナ人がこのことを理解していることを説得力を持って示しています。国民の78%が、ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁系の活動に国家がある程度介入すべきだと考えています。そのうち54%は、この宗教団体はウクライナで完全に禁止されるべきだと考えています。

モスクワ総主教庁のかつての教会のうち、ウクライナ正教会に自発的に移行する教会が増えています。ウクライナ正教会は、そのような境界に対して簡略化された移行プロセスを提案しています。本格的な侵略が始まって以来、277の教会がこの移行を行いました。ウクライナだけでなく、クレムリンが聖職者を通じてプロパガンダや工作員を広めている西側諸国の安全保障にも関わっていることから、他の国々でもロシア正教会の影響力を排除する必要があります。

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

アンナ・ヤーブルチナ

編集長:

ナタリヤ・ポネディロク

編集:

イェウヘーニヤ・サポジニコヴァ

写真編集:

ユーリー・ステファニャク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

専門家:

ヴラディスラウ・ハブリロウ

オレフ・トゥリー

アナトリー・バビンシキー

翻訳:

藤田勝利

Ukraїner International編集長:

アナスタシヤ・マルシェウシカ

Ukraїner Internationalコーディネーター:

ユリヤ・コジリャツィカ

Ukraїnerをフォローする