ヤルタの歴史:クリミアの街におけるウクライナのアイデンティティ

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クリミア南部の黒海の美しい湾に位置するヤルタの街は、ロシアが半島を占領して以来、9年以上にわたってウクライナ人が立ち入ることのできない場所となっています。それ以前は、主に発展した人気のリゾート地として知られ、ウクライナ国内外から人々が集まっていました。2014年以降、「ルースキー・ミール」は一貫してヤルタの観光地としての魅力を潰してきました。今は汚いビーチがあり、旅行者はほとんどおらず、森林伐採によって自然は一部破壊されています。占領当局に異論を唱えただけで、ウクライナ人やクリミア・タタール人が拉致され、殺害され、ロシアに連行され、捏造された事件で投獄されるのです。本格的な侵略が始まってからはそのような抑圧は強まるばかりでした。

しかし、占領10年目になっても、地元の人々は当局と自称している者たちに抵抗し、ウクライナ人であることを示し続けています。彼らは、ヤルタが単なる憩いの場ではないことを証明しています。全面的なロシア化の試みが何度も行われたにもかかわらず、この街はウクライナ文化と抵抗の中心地であり、今もそうであり続けています。

この記事では、ヤルタの歴史と文化生活がウクライナの発展にとって重要な部分であることから、ヤルタの真のアイデンティティについて見ていきます。

ヤルタの出現

ヤルタの歴史は、青銅器時代(紀元前2~1千年)にクリミアの山岳地帯に住んでいた戦士の一族、タウロイ人による最初の入植に始まります。彼らの滞在期間は、発見された埋葬地(死者を埋葬した石造りの箱)から判明しています。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスも、紀元前513年もしくは514年のスキタイ・ペルシャ戦争について記述した際に、この戦意あふれる人々について言及しています。ヘロドトスは、タウロイ人を、海でギリシャ人を捕らえ、女神に生贄を捧げる海賊と表現しています。部族民は捕虜の首を切り落とし、棒につないで家の屋根の上に掲げていました。

その後、タウロイ人は古代ギリシャによって植民地化され、クリミア南部の領土を占領されました。後に現代のヤルタとなる集落の名前は、古代ギリシャ語で海岸を意味する「ヤロス」に由来するという伝説が、今では地元の人たちの間で語り継がれています。ギリシャ人たちは、新しい居住地を探す途中で嵐に遭い、数週間にわたって黒海で遭難してしまいました。船員の一人が海岸を見つけ「ヤロス!ヤロス!」と叫んだことから、この集落はヤリタと呼ばれるようになりました。山々に閉ざされた湾は、ワイン醸造や農業に適した気候であったため、集落は急速に発展し始めました。

その後、エタリタやジャリタとも呼ばれたこの集落は、さまざまな民族の支配下に置かれ、それぞれの方法でその名を変えていきました。また、集落自体も変化しました。6世紀には、南ヨーロッパ、西アジア、北アフリカを領土とする中世最大の国家のひとつであるビザンツ帝国の手に渡りました。その時、この集落に最初の教会と城塞が建てられました。城塞の遺跡は、ヤルタの近く、ウクライナで最も高い滝であるウチャン=スーの近くに今も保存されています。13世紀初頭、ビザンツ帝国は、首都コンスタンティノープルを第四回十字軍遠征で失い、滅亡の危機に瀕していました。一方、ヴェネツィアからクリミアに入ったイタリア商人は十字軍を支援した一方で、彼らの主な競争相手であるジェノヴァ人は、半島南岸が貿易に有利な地勢であったため、ヴェネツィア人の活躍を心配していました。

ジェノヴァ人には、間もなくクリミアを奪還するチャンスが巡ってきました。1261年、ジェノヴァ共和国とビザンツ帝国は同盟条約を締結しました。その条件は、もしビザンツ帝国が首都の支配権を取り戻すことができれば、ジェノヴァは黒海流域での貿易の独占権を得ることになる、というものでした。当時、この都市を攻略することはほとんど不可能と思われていました。しかし、半年も経たないうちに、ビザンツ帝国の軍隊は十字軍を破り、コンスタンティノープルに攻め入りました。ビザンツ皇帝はジェノヴァ人に感謝し、首都の近くに集落を作ることを許可しました。クリミア南岸一帯はジェノヴァの管轄となりました。それに伴い、ヤリタは非常に大きな港となり、クリミア沿岸における交易拠点の1つとなりました。しかし、この街の繁栄は長くは続きませんでした。1471年、ヤリタは地震によって崩壊しました。

1475年、クリミア全土と新たに形成されたクリミア・ハン国は、オスマン帝国の保護領を認め、オスマン帝国の属国になりました。トルコ軍に南海岸を占領された後、ヤルタの領土自体が直接占領され、クリミアにおけるオスマン帝国の行政区画(サンジャク)となりました。アルメニア人とギリシャ人が地震で荒廃した土地に戻ったのは、次の世紀になってからでした。彼らの多くはイスラム教に改宗しました。街の名前も変わり、トルコ語の発音に合わせられるようになりました。こうして「ヤルタ」という名称が定着したのです。

こうして、時代によって半島に居住した多数の民族(タウロイ人、スキタイ人、アラン人、ギリシャ人、ゴート人、イタリア人、トルコ人、西キプチャク人など)による長い民族形成の中で、テュルク系ウクライナ先住民であるクリミア・タタール人(キリムリ)が形成されました。

ヤルタでのロシア化の始まり

やがてロシアは、ヤルタを作ったのは自分たちであるという神話を浸透させ、その歴史遺産を主張することになる。このように、ロシアは支配の様々な段階において、都市の遺産を収奪するだけでなく、クリミアの過去を通じて自身の歴史の連続性を人為的に強めようとしたのです。しかし、ヤルタはロシア人がその領土に現れるずっと以前から存在していたことが、事実によって証明されています。

18世紀の終わりまで、ヤルタの人口の大半はクリミア・タタール人で占められていました(90%以上)。その後、ロシア帝国とオスマン帝国との戦争によって、地域住民の構成は大きく変化しました。1771年には、ロシア帝国は黒海を支配し、新国家との貿易の拠点として地中海へのアクセスを得るために、すでに半島を占領していました。

1774年、ロシアのグリゴリー・ポチョムキン公はエカテリーナ2世に「ギリシャ計画」を提示しました。公式的な見解では、ロシアはオスマン帝国を倒し、ロシアとオーストリア帝国で分割することを目的としていました(ドイツでの支配権争いにロシアの支援を得ようとしたウィーンの王位に、ヨーゼフ2世がついたことで両者はより親密になりました)。そして、征服した土地に古代ギリシャの後継国家とされたビザンツ帝国を復活させるという計画でした。11世紀から15世紀にかけて、ビザンツ帝国は危機やクーデターに悩まされ、その結果、多くの土地を奪われ、1453年にはついに消滅してしまいました。地中海沿岸に点在する領土の一部とコンスタンティノープルだけがかつての強国の一部として残りましたが、それさえも後にオスマン帝国に攻略されてしまいました。

ビザンツ帝国の首都として知られるツァルホロド(コンスタンティノープルの別名)は、17世紀、モスクワの支配者たちにとって格好の餌食となりました。ピョートル大帝は、コンスタンティノープルの征服計画を進めていました。その後、1735年から1739年まで続いたトルコの作戦で、女帝アンナ・ヨアノヴナ(一部の資料ではイヴァノヴナ)によって占領されました。

エカテリーナ2世は、先代と同じようにこの都市をロシアに併合することは望みませんでした。エカテリーナ2世は、オスマン帝国よりもオーストリアとの直接的な衝突を恐れていたため、ロシア帝国とオーストリア帝国との間に一種の緩衝地帯を作ろうとしたのです。エカテリーナ2世によれば、孫のコンスタンティンがギリシャ王国の王位を継承し、友好と兄弟愛に基づいてモスクワと王朝連合を結ぶ予定でした。ギリシャ計画によれば、正式に復活したビザンツ帝国は、独立を保ちながらも、ロシアの保護下にありました。

それ以前、クリミア半島の土地は歴史的に一度もロシアに属していなかったため、モスクワはイスラム教の大規模な広がりから正教徒の住民を守るために侵略を正当化しました。1778年、エカテリーナ2世は正教の保護を宣言し、ギリシャ人・アルメニア人・ヴラフ人を中心とするすべての正教徒をヤルタだけでなく半島全体から強制送還させました。これは、ロシア皇帝がウクライナ領で始めた最初の強制送還の1つでした。強制移住させられた人々の代表は商人であり、タウリヤ地方の主要な納税者でした。ロシア帝国は、彼らを強制移住させることで、トルコの保護下にあったクリミア・ハン国を経済的に弱体化させ、最終的に半島を奪取しようとしました。新たに併合された土地には、軍人・役人・国家農民(国有地を利用していましたが自分たちは自由に働いていると考えていました)・農奴など、ウクライナ人やロシア人が入植しました。

ヤルタからの移民は黒海沿岸地方に定住し、マリウポリ近郊に同名の集落を築きました。同時に、ロシア帝国はクリミア・タタール人に対して圧力をかけました。クリミアを最終的に占領・併合したエカテリーナ2世は弾圧を開始し、クリミア・タタール人の農民から土地を取り上げました。そのため、クリミア・タタール人のオスマン帝国への移住が大規模に行われるようになりました。ヤルタはさびれ、小さな漁村と化していました。集落には教会とギリシャ大隊の国境警備隊が残るのみでした。

長い間、村には何もありませんでしたが、エカテリーナ2世はヤルタに隣接する土地を寵愛する将軍やモスクワの貴族に寄贈しました。ロシアの貴族たちは、近代都市の領土を積極的に開拓し始めました。彼らは、温暖なヤルタで夏休みを過ごすために宮殿やコテージ、邸宅を建て、庭園やブドウ畑を整備しました。ワインやタバコの生産が急速に盛んになりました。1838年、ロシア皇帝アレクサンドル2世がヤルタを都市として認めると、ますます多くのロシア人がヤルタに来るようになりました。ヤルタだけでなく、南海岸の村や町を含む郡は、まだクリミア・タタール人が多く暮らしていました。クリミア南東部の先住民の割合が20世紀まで高かった理由のひとつに、クリミア戦争で半島西岸にいたクリミア・タタール人がヤルタ郡に内部移住したことが原因の一つであると歴史家は考えています。このように、ロシア帝国はクリミア・タタール人がトルコ側に参加し、さらに当時の敵国の領土に移住することを防ぐため、クリミア・タタール人を作戦の舞台から排除することを決定しました。ヤルタ郡におけるクリミア・タタール人の割合は78.3%から90.6%に増加しました。

ところが、1860年代に入ると、ヤルタはリゾート地として発展していきます。結核の人にここに来るように勧めたロシアの医師セルゲイ・ボトキンの貢献は大きいものがあります。そのため、アントン・チェーホフ、レフ・トルストイ、マクシム・ゴーリキーなど、多くのロシア人作家がヤルタを訪れました。ここで彼らはクリミア南部の都市に関する作品を書き、それがロシアの文化遺産となったため、ヤルタが「元来ロシア領」であるという帝国的神話を強めることとなりました。しかし、この言説は現実とは何の関係もありません。

ウクライナ人は街の発展に大きく貢献しました。まず何よりも、ヤルタの発展は、20年以上そこに住んだウクライナ人の詩人であり民俗学者のステパン・ルダンシキーと密接な関係があります。サンクトペテルブルク医科外科アカデミーを卒業した若き医師は、クリミア南岸にやってきました。その後ヤルタに行き着き、市の課で働き始めました。彼は誠実に仕事をこなし、そのことはすぐに住民、特に貧しい境遇の人たちの目に留まりました。ステパンは、しばしば患者の医薬品の調剤を手伝い、その対価を請求することはありませんでした。また、彼は自らの発案で病人のための応接室を設け、ヤルタの病院に初めて女性用の独立したベッドを設けました。クリミア南岸の検疫・港湾医となったステパン・ルダンシキーは、街の生活環境を改善し始めました。自分の土地の一部をヤルタに寄贈して噴水の建設を主導したり、新しい市場の建設に着手したのです。また、クリミア南岸で最初の医学図書館を建設し、消防署や気象台の設置も目指しました。

ステパン・ルダンシキー

ヴォロディーミル・ドミトリイェウ

ウクライナ人医師ヴォロディーミル・ドミトリイェウもヤルタのために多くの貢献をしました。彼は街の上下水道システムの構築に貢献し、1897年にヤルタ気象台を開設、ステパン・ルダンシキーの意志を受け継ぎました。その3年後には、ロシアで最初の観光組織「クリミア山岳会」を設立し、ヤルタ支部を統括しました。また、孤児院・男子校・劇場・公共図書館を市内に開設しました。

リゾート地として人気を博したクリミア南岸には、豪華な別荘や宮殿を建てようと集まったロシア貴族だけでなく、ウクライナ貴族の開発者たちも移り住んできました。例えば、コチュベイ家・ベズボローヂコ家・ダニレウシキー家・アルチェウシキー家などです。ヤルタには、この街の主任建築家ニコライ・クラスノフが設計したヴァシリ・コチュベイの邸宅が今も保存されています。

帝国の転換期におけるヤルタ

1917年、ニコライ2世が退位し、ロシア帝国が消滅したとき、ヤルタはロシアとは別に発展し、ロシアの呪縛から解き放たれる機会を得ました。この頃、ウクライナ全土で解放闘争が行われており、クリミアも例外ではありませんでした。モスクワの専制政治が崩壊したことで、クリミア半島の社会政治運動に弾みがつき、最初の政党「ミリィ・フィルクア」(クリミア・タタール語で人民党)が結成されました。そのメンバーや支持者は、クリミア・タタール人の民族闘争を強化しました。その結果、同党はクリミアに独立国家を創設することを宣言する議会の召集を初めて要求するようになりました。同時に、臨時政府はクリミア・タタール人の軍事部隊の編成を許可しました。これらの部隊の一部はヤルタに到着し、都市の秩序を維持しました。しかし、この部隊は約束された平和を維持することはできませんでした。

ウクライナ領内で、社会革命を標榜するボリシェヴィキ(赤軍)、ロシア帝国復活を支持する白軍、そして1917年12月に独立を宣言したウクライナ人民共和国の三者間における戦争が勃発しました。軍同士の争いは、クリミアにも影響を与えました。1918年のクリスマス前夜、ヤルタはクリミア・タタール人と彼らを支持するすべての人々に対する赤軍の殺戮と残虐行為の中心となりました。ボリシェヴィキの参加で武力衝突が起こり、街頭でポグロムを行い、地元の人々を恣意的に逮捕しました。その後、赤軍は、クリミア・タタール人がロシア人を殺害しているというプロパガンダを展開し、ヤルタへの海軍の襲撃に発展しました。軍用駆逐艦の軍艦が南海岸に到着し、砲撃を行い、武力で制圧しました。ボリシェヴィキは4日間で700発以上の砲弾を艦船からヤルタに撃ち込みました。同時に、大砲や水上飛行機による攻撃も行われました。

ボリシェヴィキは軍人だけでなく、疑わしいと思われる一般市民も射殺しました。目撃者によると、彼らは、侵略者との激しい戦闘の後、負傷したクリミア・タタール人の治療をしているときに、慈善修道女会の人を殺害したということです。敵がそこから撃っているとされる家を彼らが指差すと、赤軍兵は直ちに砲撃を行いました。死亡した者もまだ生きている「反革命分子」も、足に石をくくりつけられて黒海に投げ込まれました。時には、殺害された市民の死体が街の真ん中に放置されることもありました。

赤軍は1918年1月29日にようやくヤルタを占領しましたが、その頃、ウクライナではクルーティの戦い(キーウから北東130キロに位置するクルーティ鉄道駅近くで行われた戦い)が行われていました。殺戮と逮捕が終結すると、ボリシェヴィキが市内に進駐してきました。「赤色テロ」の波は1918年4月末まで続き、ブレスト条約に基づきボリシェヴィキ自身がクリミアを去り始め、そこにドイツ軍が進駐しました。ドイツ軍がペレコープ防壁の襲撃を成功させ、クリミア山中で赤軍に対するクリミア・タタール人の戦争が勃発すると、ペトロ・ボルボチャン率いるウクライナ人民共和国軍は敵軍の分散に乗じて、クリミア半島で見事な特殊作戦を実施しました。ウクライナ軍は地雷が設置されたチョンハール橋を攻略し、クリミア班軍はジャンコイでドイツ軍を制圧し、セヴァストーポリ近郊でボリシェヴィキを撃破することに成功しました。ボリシェヴィキ政権は一時的に打倒されました。

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2年後、ボリシェヴィキは半島で新たな攻勢を開始しました。赤軍はウクライナの無政府主義者ネストル・マフノの支援を得ました。マフノは、ピョートル・ヴラーンゲリ率いる白軍の討伐に協力しソ連軍に参加する代わりに、マフノの生まれ故郷であり、彼が活動していた下ドニプロ地方およびザポリッジャ地方東部のフリャイポーレの自治を得ることに同意しました。これは絶対的な同盟国同士の協定ではなく、共通の敵と戦いながらも、それぞれが相手を倒すことを念頭に置いていました。

ヤルタは、赤軍がクリミアに入った最後の都市でした。同日、ボリシェヴィキはクリミア革命委員会の第四次指令を発表しました。それによると、3日以内に彼らの体制にとって「危険」とみなされる人々が登録されました。それらはすなわち外国人・ブルジョワジー・司祭・知識人(教育者・科学者・芸術家など)・ソ連軍の不在中にヤルタに到着した人々・ヴラーンゲリ主義者(ロシア内戦で赤軍と戦った白軍総司令官ピョートル・ヴラーンゲリの信奉者)などでした。白軍に勝利した直後にボリシェヴィキに迫害されたマフノ主義者も殺害されました。逮捕された者はすべて、地下室の即席牢屋や強制収容所に入れられました。場所によっては、絶対的に耐え難いような状況でした。特に、囚人が膝まで水に浸からなければならない「水族館」独房は悪名高いものでした。

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しかし、ソ連当局がヤルタの領土に持ち込んだ恐怖は、それだけにとどまりませんでした。半島を占領したボリシェヴィキは、自由貿易の禁止・貨幣流通の制限・カードによる食糧配給制度の導入・集団化など、財産の強制再分配と経済関係の全廃を含む戦時共産主義の政策を実施し始めました。1921年にクリミアに到着した懲罰部隊は、1年間に少なくとも900万プード(約1億4760万kg)のパンを収集することを住民に要求しました。略奪で疲弊し、ほとんど壊滅状態にあった地元住民にとって、これは不可能な要求でした。しかし、ソ連指導部はクリミア半島の事情を完全に無視し、集めた食料をすべて持ち出してしまいました。クリミアにおけるソ連の犯罪的な政策は、1921年から1923年にかけての大規模な飢饉を引き起こし、ヤルタ地区全体は半島で最も被害を受けた地域の1つとなりました。

ヤルタにおけるクリミア・タタール人の絶滅の最後の決め手は、1944年にナチスへの協力の疑いで強制送還されたことでした。約27,000人のクリミア・タタール人が、市と周辺の村からウズベキスタン・カザフスタン・タジキスタンに強制的に追放されました。代わりに、ヴォロネジ・クルスク・アリョール、ベルゴロド州から集団化した農民が民族的に開拓された地域に入植し、土地を開墾しました。先住民の強制送還の結果は、2001年のウクライナの国勢調査の結果にも表れています。ヤルタでは、クリミア・タタール人が人口の2%未満で、ロシア人が66.5%を占めました。また、強制送還後、ヤルタをはじめクリミア全土でクリミア・タタール語の教育が完全に廃止されました。その結果、クリミア・タタール語は絶滅の危機に瀕しています。

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言語的復興、ウクライナ演劇・映画制作の発展

ロシアがヤルタの歴史を抹消し、帝国的視点からそれを書き直そうとしたにもかかわらず、ヤルタではウクライナ語が存続しました。興味深いことに、クリミアにおけるウクライナ語の復興は、ロシア語以外の言語が絶えず抑圧されていた19世紀後半から20世紀前半に遡ります。この復興には、 レーシャ・ウクライーンカ、ミハイロ・コツュビンシキー、オレクサンドル・オレシ、ミコラ・コストマロウなど、ヤルタのリゾート地に治療に訪れたウクライナの知識人たちの功績が大きいです。クリミアに移住したウクライナ人だけでなく、他の民族のコミュニティにおいても、市民活動家たちはその活動を通じてウクライナの言語と文化に注目するようになりました。特にレーシャ・ウクライーンカは、1897年にオレーナ・プチールカに宛てた手紙の中で、地元の人々がウクライナの出版物を喜んで購読し、シェフチェンコの「コブザール」を読書室に送るように頼んだと述べています。クリミア滞在中、彼女自身はヤルタの詩を執筆し、それは「クリミアの思い出(Кримські спогади / クリムシキ・スポーハディ)」という詩集に収録されました。この詩集の中の一篇は、レーシャ・ウクライーンカのクリミアへの憧れを十分に伝えています:

「南の大地よ!なんと遠くにあることだろう! 険しい山々の向こう、 広い谷の向こう、厚い霧に覆われ荒れ狂う海の向こうに…」

(「導入(Заспів / ザスピウ)」、1891)
*詩および詩集名は翻訳者の訳によるもの

また、出版社は独自の判断でウクライナ人作家の文章を個別に印刷しました。特に、ミコラ・ヴァフチンの印刷所では、ウクライナの作家オレクサンドル・コニシキー=ペレベンヂャの作品集第3巻が出版されました。

ウクライナの知識人たちが特に関心を持ったのは、クリミアとウクライナ本土のウクライナ人との関係に関する研究でした。特に、16世紀から17世紀にかけてクリミアの土地でかなり広まっていたコブザール文化によるものでした。半島における古くからの伝統の出現は、タウリヤ地方に防衛陣地を構えていたコサックと関連しています。彼らはしばしばクリミア・タタール人の捕虜となったため、捕虜の苦しみを祖国に伝えるためにドゥマ(フォークロアのジャンルの一つで、16~17世紀のコサックの生活における出来事を描いたウクライナの口承文学の叙事詩作品。ウクライナ語:дума)が作られました :「捕虜の少女」(マルーシャ・ボフスラウカという女性捕虜について)、「囚人の叫び」(強制労働に従事する囚人たちの苦しみについて)、「黒海の嵐に関するドゥマ」、「ツァリフラード(コンスタンティノープル)の市場での出来事」(バイダ(このドゥマに登場するコサック)について)、「サミイロ・キーシュカというコサックに関する」ドゥマなどです。コサックの生活に関するフォークロアは、歴史家ドミトロ・ヤヴォルニツキー、作家レーシャ・ウクライーンカ、音楽学者であり民俗学者のクリメント・クヴィトカ、市民活動家であり音楽家のドミトロ・レヴツキーなど、ウクライナ文化界の著名人たちによって研究されていました。100年後、この活動はヤルタのバンドゥーラ奏者オレクシー・ニルコによって続けられ、彼はクリミアとクバーニにおけるコブザール文化の綿密な研究を発表し、ヤルタに博物館を開設して19世紀と20世紀における20以上の楽器を保存しています。

19世紀から20世紀にかけて、ヤルタでは演劇が活発に展開されていました。ステパン・ルダンシキーは、ウクライナの作家の作品を上演する地元の劇団を積極的に支援しました。また、ウクライナの劇団、特にコリフェイ劇場(Театр корифеїв)は、ツアーでこの街に訪れて、地元住民の大きな共感を得ました。イヴァン・カルペンコ=カリー、マルコ・クロピウニツィキー、マリヤ・アゾウシカ、ミコラ・サドウシキー、ミハイロ・スタリツィキー、パナス・サクサハンシキーなど、一時期この劇場の有名な代表者がヤルタで活動していたこともありました。観客は彼らを非常に温かく迎え、何度も1ヶ月前から公演が計画され、毎日新しい作品が披露されていました。1905年には、ヤルタでウクライナの劇場が誕生しています。政治的な理由で全国的なレベルに達することはできませんでしたが、地元の劇団はクリミア半島にウクライナの演劇の伝統を確立することができました。クリミア南岸にあるどの民族共同体も、このようなことを再現できてはいません。

演劇だけでなく、この街は映画産業でも知られています。たとえば、1921年から10年以上にわたってモスクワから独立して運営されたヤルタ映画工場は、ウクライナの歴史において重要な役割を果たしました。全ウクライナ写真映画管理局に従属し、国民的映画の発展における重要な基礎となりました。有名な女優がこのスタジオに所属していました。映画「結婚の夜(Шлюбна ніч / シュリューブナ・ニーチ)」で有名になった後のハリウッドスターのアンナ・ステンや、ヴァルヴァラ・マスリュチェンコ(「不安(Каламуть / カラムチ)」「森の歌(Лісова пісня / リソヴァ・ピースニャ)」「バビロンXX(Вавилон ХХ / ヴァヴィロン XX)」などのウクライナ人監督作品に出演)などがいます。そして、ヤルタ映画工場の脚本は、ミコラ・バジャン、フリホリー・エピック、オレーシ・ドスヴィートニーなどのウクライナ人作家によって書かれました。ここで、最初のクリミア・タタール映画であるヘホルヒー・タシンの「アリム(Алім)」が撮影されましたが、後にソ連の共和国での上映が禁止され、そのコピーはすべて破棄されました。

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1930年代は「大粛清」の時代と呼ばれ、ウクライナのヤルタにとって困難な時代とりました。クリミアの市民活動家に対する大規模な弾圧が再び活発化し、この地域における文化の発展や民族運動の活動が著しく鈍化しました。クリミアは、第二次世界大戦中に解放闘争とウクライナ的思想の高揚を復活させる機会を得ましたが、このとき半島住民の一部がウクライナ民族主義者組織(OUN)に協力するようになりました。1942年から1943年にかけて、ウクライナの地下組織の活動家たちは、ナチスだけでなくソ連軍に対しても戦争を仕掛けるために、クリミアの人々と交流する機会を得ました。最初に協力に加わった人たちは、タラス・シェフチェンコ記念ウクライナ音楽演劇劇場(シンフェロポリ)の演奏者で、ヤルタでの公演の際に参加しました。彼らはこの公演を利用してクリミアで地下組織を組織し、OUNとの連絡を確立しました。しかし、反乱軍は残念ながら、半島で大きな成果を上げることはできませんでした。

第二次世界大戦の終結前夜、1945年2月、ヤルタの街でアメリカ・イギリス・ソ連の3カ国首脳による会談が始まりました。この会談は後に「ヤルタ会談」と呼ばれ、戦後の世界政治の構図とすべての国家のその後における在り方を決定する出来事となりました。連合国は、ドイツの領土を分割して共同管理することで合意しました(実際は戦後占領)。また、交渉の中で、首脳たちは、世界の秩序と共通の安全保障を維持する国際機構である国際連合を創設することを決定しました。ウクライナが将来の国連創設メンバーの1つとして承認されたのは、ヤルタ会談の席上でした。こうして、ウクライナは再び、形式的にではあるが、国際法の主体となったのでした。それに劣らず、ヤルタ会談では、現在の領土をウクライナに譲渡することに直結する問題が提起されました。会議の結果、1939年にソ連軍に占領されたリヴィウは、最終的にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に編入することになりました。

その後も、現在のような国境線でのウクライナの形成は続きました。1954年、戦争で荒廃したクリミアは、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に移管されました。これは、ソ連当局が「クリミア地域のウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に対する領土的帰属・共通経済・密接な経済および文化的関係」を考慮し、半島の戦後復興の責任をウクライナに移すために下した決定でした。10年以上、クリミアは廃墟のままでしたが、1960年代に入ると、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国は半島を整備し始めました。新しい住宅・施設・ホテルなどが登場しました。ソ連とヨーロッパで最初の山岳道路がヤルタまで敷かれ、「全ソ連の保養地」の発展を大きく後押ししました。さらに、ウクライナ政府はカホウカ貯水池への運河を建設し、半島への水供給を確保しました。これは、以前クリミアを支配していたどの国家も行っていないことです。

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クリミアの譲渡は、その後、幾つもの作り話や誤った解釈が跋扈することとなりました。ニキータ・フルシチョフソ連共産党中央委員会第一書記が酔った勢いでクリミアをウクライナに与えたとか、ペレヤスラウ会議300周年記念に半島をウクライナに「贈与」したとかいうものです。これらの言説は、占領を正当化するために、現代のロシアのプロパガンダによって今日も繰り返されています。ロシアがクリミアをウクライナに与えたのは、わずか数十年の予定であったからだ、というのです。占領軍は「公正さを取り戻し」、あるべきものを返したに過ぎません。

ソ連崩壊後、ヤルタはクリミア半島全体と同様に、国際的に認められたウクライナの領土の一部となりました。それまでソ連に属していた黒海艦隊もウクライナの管理下に置かれました。この決定に対して、クレムリンの支援を受けた一部の将校が反発し、1993年にロシアとウクライナは黒海艦隊を平等に分割する協定に調印しました。しかし、その後の両国大統領の交渉により、ほぼ全艦隊がロシアに移管されることになり、ウクライナ人の間で論理的な不満が噴出しました。

翌年には、言語問題が提起されました。クリミア南部のウクライナ人による大会がヤルタで開催され、教育機関でのウクライナ語教育を徐々に回復することを求めるためのアルシュタとヤルタの議会への要望が採択されました。さらに、代表団は政府機関の建物にウクライナ国旗を掲げ、ソ連の記念碑を取り壊すよう主張しました。このように、ヤルタのウクライナ人コミュニティは、1990年代には早くもロシア人コミュニティから分離し、非共産化を始めようとしていたのです。これは、ヤルタが半島の他の地域と同様に常にロシア連邦の一部になることを望んでいたという今日の神話を完全に否定するものです。

占領下の街

2014年2月、徽章のない武装兵がクリミア領内に不法侵入し、同半島の重要施設を占拠しました。(服装の色から)「リトル・グリーンメン(Зелені чоловічки / ゼレーニ・チョロヴィーチュキ)」と呼ばれた彼らは、後に「ロシア固有の領土を故郷に戻す」ためにウクライナ東部でいわゆる反テロ作戦を展開するロシア軍の精鋭部隊であることが判明しました。3月16日、侵略者たちは違法な住民投票を行い、その結果、クリミア半島住民の93%がロシアの一部になることを望んだと主張しました。そしてクリミアは占領されました。

クリミア住民は、ウクライナの発展のために親ヨーロッパ路線を支持し、愛国心を公に主張しました。尊厳の革命から一時的な占領が始まるまでの間、クリミア半島の住民たちは半島各地の都市で何十回もデモを開き、自分たちの立場を表明しました。特に、2013年11月29日にマイダンでベルクト部隊*による学生への殴打事件が起きた後、ヤルタで行動が開始されました。このように、地元の人々は欧州統合への願望を示し、当局の専制政治に反対したかったのです。さらに、ロシアによる侵攻の際、ヤルタの住民は親ウクライナのデモに積極的に参加しました。占領軍の旗を掲げ、「ファシズムを広めない!」と叫ぶ挑発者たちが何度も解散させようとしましたが、抗議者たちは青や黄色の旗やリボンを持って街頭に立ち続けました。

ベルクト部隊
1992年から2014年にかけて存在したウクライナ内務省管轄の警察部隊

現在、一時的に占領されたクリミアとヤルタでは、平和的な抗議活動やウクライナのアイデンティティを示すあらゆる試みが、ロシア当局によって徹底的に弾圧されています。帝国時代のすべての伝統に従って、先住民を抑圧し、親ウクライナ的な立場の人々を迫害・拉致・投獄し、この地域を徹底的にロシア化し続けているのです。

侵略的政策の主な姿の一つは、2014年3月以降、ロシア国籍の取得の強制と、ロシアモデルに基づく書類回付でした。そうでなければ、ヤルタの住民は、たとえずっとここに住んでいたとしても、外国人と同じことになってしまうのです。ロシアの法律によれば、ウクライナのパスポートを持ち、それを変更したくない人は、半島に90日間だけ滞在でき、その後は強制送還されることになっていました。ロシア国籍のないヤルタ市民には、ロシアのパスポートがないと発行できない保険が必要なため、医療も提供されませんでした。また、この街の住民は、就職機会・教育機会・社会サービスの享受、不動産登記などを申請する際、公然とした差別に直面しました。

ウクライナ文化もハラスメントを受け、さらに破壊の対象となっています。2014年3月、ヤルタの学校を含め、ウクライナ語で教えていたすべての学校が閉鎖されました。しかし、このことによって、2014年にヤルタのある学校の卒業生が修了式の際にロシア国歌の音楽に合わせてウクライナ国歌を歌うことを妨げることにはなりませんでした。

占領中、この街だけでなくクリミア全土においてウクライナを示す最大の中心地の一つであるレーシャ・ウクライーンカ博物館が閉鎖されました。形式的には2016年春にロシア側が修復を始めましたが、本格的な戦争が始まって14ヶ月目時点でも博物館は閉鎖されたままです。展示物の行方も不明のままです。

しかし、占領下にあっても、ヤルタは数世紀前と同じように侵略者と戦い続けています。クリミアの住民は、本格的な侵略が始まった後、ウクライナ軍などがウクライナ国境付近の広い地域を占領から解放させることができた際、特に民族的抵抗が高まったことを経験しています。クリミアの住民たちは今、同様のシナリオを期待しており、そのため半島では「イエローリボン(Жовта стрічка / ジョウタ・ストリチュカ)」という地下運動が活発になっています。2022年4月、一時的に占領されていたヘルソンで初めて誕生し、他の地域にも広がっていきました。ヤルタでも地元のパルチザンが大量にビラを撒き、国のシンボルを配布して、占領軍に「クリミアはもうすぐ解放される」という注意を促しています。

クリミアを取り戻すことは、単なる謳い文句ではありません。半島を占領から解放することに関する発言は、国際舞台でますます聞かれるようになっています。すでに計画されているウクライナ軍の新たな反攻によって、南部タウリヤ地方にウクライナ国旗が掲げられる可能性があると各国の代表が指摘しています。特に、2022年9月に開催された、国家指導者がグローバルな観点からウクライナの欧州の将来を議論するイベントであるYESフォーラム(ヤルタ欧州戦略、Yalta European Strategy)にて、このことが議論されました。2014年以降、ヤルタがロシアに一時的に占領されている間、このフォーラムはキーウで開催されてきました。その都度、参加者は「来年はクリミアで会おう」という象徴的なフレーズを口にし、ほとんど形式的なものでした。しかし、今年は違います。ゼレンシキー大統領によれば、現在は過去8年間のYESフォーラムよりもヤルタに近づいたとのことです。ウクライナは、ロシアに妥協するつもりはありません。和平交渉の唯一の前提条件は、1991年の国境内にあるすべてのウクライナの領土の解放です。

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