戦争中オデーサの文化を守る

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オデーサの人たちは、ロシアとの全面戦争の最初の日から彼らの街を強化してきました。ロシア軍は何でも行う準備ができていることに気づき、文化遺産を保護し始めた人もいれば、武装した人もいました。そして、美術館が一時的に機能を停止しコレクションを退避させたときには、「オデーサの千の扉(Тисяча дверей Одеси)」などの積極的なプロジェクトがさらに開始されました。

都市や村を砲撃しているロシアの占領者の行動の影響で、ウクライナはほぼ毎日その文化財を失っています。それらのいくつかは著しく損傷しています。残念ながら、このような悲惨な統計は戦闘行為が終わるまでさらに増加するでしょう。しかし、ウクライナ人は文化面でも激しく抵抗しています。ボランティア、公的機関または文化施設の代表者は、美術館、ギャラリー、建築物の展示品を保護するためのあらゆる可能性を探しています。

オデーサには、1,000を超える建築モニュメントと50を超える美術館があります。街はさまざまな歴史的時代を経ており、ウクライナ人、フランス人、イタリア人、スイス人、ドイツ人、ポーランド人、ブルガリア人など、さまざまな国籍の芸術家がその創設に加わりました。つまり、オデーサは多様な多文化都市であり、折衷的な文化遺産があります。そして、オデーサの一部の住民は、特にロシアとの全面戦争中に、それを保存し伝えていくことが彼らの重要な義務であると考えています。

2か月以上の軍事対立の間、ロシア軍はオデーサに侵入していません。しかし、ロシア軍は都市とその周辺にミサイルと大砲を発射しました。

避難における西洋東洋美術館

オデーサ西洋東洋美術館は、ウクライナで最高の美術館の1つであり、あと2年で100周年を迎えます。副所長のカテリーナ・ミヘイツェヴァは、全面戦争が始まる前に、彼らはすでにこの機に大規模な祝典プログラムを準備しており、博物館には定期的に数十人が訪れていたと言います。ここでは、西ヨーロッパ、東部、古代美術の3つの主要なセクションに分かれた展示品の大規模なコレクションを鑑賞できます。しかし、2月24日、博物館の活動は中断されました。

「翌日(2月25日)、私たちは同僚と会い、コレクションの避難に対処するワーキンググループを結成しました。それは解体、梱包、文書化、および他のいくつかのグループからなります。」

カテリーナによると、これらの文化的な遺産の取り扱いについて最終決定を下したウクライナ文化情報制作省と緊密に協力して、博物館のスタッフだけでコレクション全体の保護に取り組みました。カテリーナは、セキュリティ上の理由から、博物館の展示物の避難の詳細を提供していません。しかし、彼女は、全面戦争の前に、大規模な修復を予定していた大統領プログラム「大建設」の中の博物館リストに含まれていたことは幸運だったと付け加えています。作業の最初の段階はこの冬に始まったので、コレクションの一部は輸送の準備ができていて、ロシアの占領者による攻撃から簡単に隠すことができました。ボランティア組織のMuseum for changeも、House of Europeの支援を受けつつ、積極的に支援を行い、展示品を保護するために必要なすべての梱包材を購入して博物館に提供しました。

「戦争か平和か、そこに疑いの余地はありません。遺産は、それ自体が歴史であるため、保護されなければなりません。なぜなら、自分自身のルーツと歴史の経過を知らずに、自分自身が誰であるかを理解すること、自分自身の知的アイデンティティを発見すること、過去とのこの超越的なつながりを確立して将来の計画を立てることは不可能だからです。」

カテリーナは、博物館はすでに戦争を経験していると言います。第二次世界大戦中、コレクションは戦線から遠く離れた大きなロシアの都市の1つであるウファに避難させられました。その結果、展示品のかなりの部分が失われました。たとえば、ニコラ・プッサン(17世紀のフランスの画家)やアンソニー・ヴァン・ダイク(17世紀のフランデレンの画家)などといった世界の巨匠の作品は戻ってきませんでした。何世紀にもわたってロシアは、ロシアに属していないものを流用してきたので、ウクライナの文化にはそのような迷惑な話がたくさんあります。

「ロシア人には、人々の資本を流用して輸出する習慣があります。それらは、ロシア出身の文化的人物、作家、絵画の職人というふりをしています。」

カテリーナは、今回は歴史が繰り返されず、全てのコレクションが安全な場所にあり、厳重に監視されていることを保証しています。そして、美術館が空っぽである間、チームはオデーサの文化的生活が止まらないようにするために可能な限りのことをする予定です。彼らは街の人々が戦争の恐ろしさから少しでも切り替えられるように講義をいくつか行うことを考えています。カテリーナは、芸術作品を熟考して議論することは、優れた知的トレーニングであるだけでなく、非常に効果的な治療法であり、その結果を個人と社会全体の両方が感じられると確信しています。

「今は悪がたくさんあるので、どうにかしてこの善のバランスを取り戻す必要があります。これは私たちの精神に大きなダメージを与える可能性があり、芸術はそれを乗り越えるのに役立ちます。」

「オデーサの千の扉」

2019年から、都市建築に関心のあるオデーサの愛好家たちは、美的且つ歴史的価値から、オデーサの歴史的な扉と門を復元しています。現在、このプロジェクトは「オデーサの千の扉」として知られています。それは、コンスタンティン・エメリャノウとUrban Inst.のチーム、「オデーサの建築(Архітектура Одеси)」と「私の家、オデーサ(Мій дім Одеса)」によって始められました。扉の最初の修復に着手する前の11年間、彼らは通りの文化財の詳細なフォトアーカイブを作成しました。革命前の建物の中庭と外壁、それらの建物の内部と装飾の詳細についてです。また、定期的な市内ツアーも実施しました。現在「オデーサの千の扉」を率いているオレクサンドル・レヴィツキーは次のように振り返っています。

「2008年以来、『オデーサの建築』プロジェクトは、ほぼすべての家の内部と外部を詳細に撮影してきました。もちろん、オデーサのすべての歴史的建造物において不可欠な部分は扉や入り口部分であり、これは本質的に(建築)プロジェクトの顔となります。これは、居住者が毎日触れていること、彼らが慣れ親しんでいること、そしてほこりを取り除き、ワックスで擦る代わりにソ連時代に塗りつぶされたものです。」

オレクサンドルは、修復プロジェクト「オデッサの千の扉」は偶然現れたと言います。同僚のユリア・イコンニコヴァは豪華で歴史的なドアを見つけましたが、それは実際には見捨てられていました。躊躇うことなく、コンスタンティンと一緒に倉庫へその扉を持っていきました。同日、新しいプロジェクトのビジョンが浮かび上がりました。都市のそのような建築モニュメントをゴミ集積場に持っていくのではなく、保護して復元することです。彼らは、19世紀のオデーサの信憑性を回復しようとしています。チームは3か月以上かけて最初の扉を正常に復元しました。それらは、トロイツカ通り43のБにある以前と同じ建物に設置されました。復元された扉を歴史的な場所に戻すことは、プロジェクトの重要なアイデアの1つです。チームは、オデーサで関心のある住民や、企業および市行政の代表者が参加する都市復興プログラムの作成に取り組みました。例えば、修復の費用の30%はその建物の住民が、70%は有志で支援したい人が募金活動などを通して負担することなど、プロジェクトを確実に実行できるようにするための原則を定義しました。

ロシアとの全面戦争が始まる前に、「オデーサの千の扉」プロジェクトのチームは、歴史的な扉の修復への最適なアプローチを考案することに成功しました。これは多くの段階を伴うかなり骨の折れるプロセスだったと、オレクサンドルは言います。それはすべて、扉を見てその状態と必要な支援の種類を理解することから始まります。次に、特定の建築物をアーカイブとして残すためだけでなく、装飾や付属品の寸法・詳細・微妙な違いを理解するために、必ず写真を撮影する必要があります。修復をする人たちは正面の写真を撮り、いわばドアの装飾の「絵コンテ」を作ります。これらはすべて、最も正確な図面を作成し、作成者が意図したとおりに損傷または紛失した部品を復元するのに役立ちます。

「私たちは似たようなものがない扉と遭遇しています。出会ってきた全ての扉は、唯一の扉です。そして、それらにはいくらか損傷があります。それらをどこに持っていくのか、これらの損失をどうするのか、市内に同様の扉がない場合、何に注意する必要があるのか。そして、私たちは写真アーカイブに目を向けて、製作者が何を意図していたのか、どのようなディテールがそこにあるはずなのかを理解し感じます。」

もちろん、扉は注意深く測定されますが、写真撮影は作業の重要な工程であり、他の扉を復元するのに役立つ場合があります。次に、修復をする人たちは3Dプリンターでドアの詳細をスキャンし、必要に応じて図を修正して、作業の調和性と信頼性の両方を維持します。付属品は別で製作することも、オデーサのフリーマーケットで適切なものを探すこともできます。

オレクサンドルは、各扉はそれぞれ唯一無二であるため、個別のアプローチが必要であると説明しています。また、ほとんどの工程は手作りです。塗装の層の数も毎回違うので、すべての塗装の層を取り除いて初めて作業量を正確に把握することができます。16回塗装された扉に遭遇したこともあるようです。古い扉や入口の内部装飾におけるそのような繰り返しの塗装は、典型的なソ連時代の慣習です。そのような上塗りされた壁のほとんどすべてに、19世紀の壁画を見つけるチャンスがあります。

「オデーサは野外博物館です。美術館に行くと一部屋に絵がありますが、ここではすべての家にそのような絵があります。もちろん、私は、生きている間に、これらすべての絵画を見つけて人々にそれを見せたいと思っています。街が本当に歴史的であり、ソ連時代にこれらの絵画は破壊されずに上塗りされた層の下で保存され、これらすべてを保護していくことができるという信念に浸り、強めていきたいとも思っています。」

オレクサンドルは、ロシアとの全面戦争の初日以来、オデーサの住民が歴史的な扉を解体したというケースは1件も確認されていないと述べています。代わりに、彼らのチームはさらに一生懸命働き始めました。

「サイレンの音と私たちが遭遇したすべての差し迫った問題の下で、アンティーク品の修復は私たちが人生、芸術、そして私たちの内なる『自分』に集中するのを助けています。」

「オデーサの建築」プロジェクトの共同創設者で写真家のドミトロ・シャマタジは、チーム全体が故郷の歴史的、文化的、建築的モニュメントを保護することに積極的で熱心であるため、オレクサンドルの見解を支持しています。ドミトロは、「オデーサの建築」のサイトにおけるコラムの著者であるため、その建築的景観の特異性をよく知っています。彼は、オデーサの特徴はその住民の多国籍性であり、それぞれが時代ごとに多かれ少なかれ都市の外観に影響を与えたと言います。それは、スタイルを混合し、生活を改善する独自の創造的または技術的なソリューションを作ることを特徴としています(たとえば、井戸のシステムなど。)ドミトロによると、それは19世紀の終わりでした。そしてオデーサは、私たちの今知っている形を取り始めました。建築と芸術における世界的巨匠が、その建築的景観の創造に加わりました。

「ここでは、初期の折衷的なバロック様式からネオ・ゴシック、疑似ゴシック、ムーア様式まで、19世紀の折衷的な傾向を例外なくほぼすべて見ることができます。」

特に戦争中に、文化財を保護することが重要であるか尋ねられたとき、躊躇うことなく、それにより自分自身が本当は誰であるかを理解し忘れないようにすることを助ける共同の歴史的遺産であると、ドミトロは答えています。
ドミトリーはまた、次のように付け加えています。

「建築は、人・国・都市の精神を反映しています。これは、未来の世代における文化の形成と文化教育に必要な歴史的構造です。」

コンテンツ作成スタッフ

プロジェクト企画:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

アンナ・ヤブルチナ

編集長:

イェウヘーニヤ・サポジニコヴァ

編集:

ナタリヤ・ポネディロク

プロデューサー:

カリーナ・ピリューヒナ

フォトグラファー:

ユーリ・マカリス

アレーシ・ピレツキ

ドミトロ・シャマタジ

ムービーカメラマン,

インタビュアー:

セルヒー・コワリョヴ

映像編集:

ナディヤ・メリニチェンコ

監督:

ミコーラ・ノソーク

音響:

アナスタシヤ・クリモヴァ

写真編集:

ユーリー・ステファニャク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

藤田 勝利