1日が1年に感じたとき: ブチャのストーリー

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ウクライナに対する大規模な侵略が始まった当初にブチャに入ったロシア兵。この戦争で最初に国際メディアに現れた写真のひとつは、ヴォクザールナ通りにある破壊された彼らの兵器の写真でした。その1週間後、ロシア軍が戻って街を占領し、市民を恐怖に陥れました。ウクライナが占領から解放した後、世界は何百もの遺体の映像に恐怖を覚えました。そのほとんどがヤブルンシカ通りでのものでした。この間、人々は水も電気も暖房もない生活を送っていました。ロシアによる砲撃の下で、食料の代わりに犬の餌を食べている状況でした。

携帯電話を隠し、タトゥーを消す

2月24日、イェウヘン・オレクシイェンコは大きな音で目を覚ましました。彼はすぐに外に出ると、地平線上に明るい爆発の閃光を見ました。軍隊での経験があり、軍事作戦について理解していた彼は、ロシアがウクライナに対して大規模な攻撃を開始した場合、ブチャは間違いなく占領されるだろうと、もっと早い段階から気づいていました。2月のその朝、彼は敢えて自分の町に留まることを決めました。

旧ソ連軍士官だったイェウヘンは、独立後のウクライナで警察官として勤務していました。1997年、警察を辞めた後、警備会社を設立しました。彼には、個人事業に家族に愛犬がいます。大きな家族でクリスマスを祝う伝統があります。松林があり、新鮮な空気があり、キーウに近い首都周辺に、多くの人が積極的に定住しています。

ブチャ最大の教会である聖アンドリー教会の近くにイェウヘンは住んでいます。薄い紺色の上着に同じ色のキャップをかぶって教会へ向かっています。彼は55歳くらいで標準的な体格です。しかし、彼と会って最初に気づくのは、目の周りに大きなクマがあること。写真を撮りたいと頼むと、彼は上着のファスナーを開け、Tシャツに描かれた大きな国章を見せてくれました。

「こんなTシャツを着ているだけで撃たれるんですよ。他にも、ウクライナに関するタトゥーやウクライナ語を話していても、です。そう、ウクライナ語を話しただけで、連行されたんです。」とイェウヘンは話してくれました。

教会からだと、ロシア人がブチャにどうやって入ってきたかを示すことができてわかりやすいようです。イェウヘンは、2月26日にロシア軍がどの方角から侵入してきたかを、身振り手振りを交えて説明します。一隊はボロジャンカからワルシャワ街道を通って入りました。もう一隊は民間の道路を通ってきました。

「彼らは街を数時間旋回しました。イルピンに向かいたかったのでしょう。私たちは彼らの座標を伝え、ウクライナ軍はヴォクザーリナ通りで爆撃を行いました。これが彼らの最初の損害で、26の装備が含まれました。それからロシア軍はヴォルゼリに逃げました。彼らは3月5日にブチャに戻りました。」

ブチャの住民は、2月26日から3月5日までの1週間を使って逃げ出しました。街では酷い渋滞が起きていました。車には自由席がなく、5つの座席に7~8人が乗っていました。その結果、数日後には、5万人以上いた町に2,500人しか残らなかったとイェウヘンは言います。そのうちのほぼ5分の1は、ロシアの占領を生き延びることができなかったのです。5月末までに、警察は420人が死亡したと報告しました。

イェウヘンは、この犠牲者数を減らすことは可能だったと考えています:

「3月6日に停電になりました。その前に当局がテレビで、占領下で最も危険なのは携帯電話だと言っていれば、犠牲者はもっと少なかったでしょう。携帯電話を理由に連行される人を見ました。私の名付け親は、ヴォクザーリナ通りで壊れた柱の写真を撮ったために撃たれました。携帯電話を見て、10メートル脇に連れて行かれ、撃たれたのです。ウクライナの国章のタトゥーがあっただけで、殺されます。『みんな逃げろ!』と言えばパニックが起こるのはわかりますが、『写真を撮るな』、『携帯電話を身に着けるな』、『占領軍と会うときは相手の目を見るな』、『タトゥーはなるべく隠せ』、『女性はアクセサリーを身に着けるな』、といった基本的なことは言えたはずです。」

タバコを補充する

エネルヘーティキ通りはブチャの中心を通り、聖アンドリー教会へと続いています。この通りで、民間人が最初に殺害されました。2月26日にロシア軍の戦車に攻撃された9階建ての建物の住民5名でした。敵軍が市内に足場を築くことができた3月5日以降、民間人の死亡者数は急速に増え始めました。

まったく理不尽な死もありました。例えば、ロシア兵の指示に従わなかったり、夜間外出禁止令が発令された後で街に出たりした人たちです。死亡した人について話すと、彼は指を丸めて、自分が見た遺体の数を数えていました:

「市場の入り口に2名、ショッピングセンターの近くにもう1名、9階建てのビルの5名に加えてエネルヘーティキ通りにもう2名、少し離れたところにもう2名いました。」

彼は、もし3月の霜がなければ、路上に大量の遺体があったことで伝染病が拡大した可能性があると述べています。

占領軍はブチャを、中央区域・ヤブルンシカ通り周辺・ガラス工場・子供キャンプ「プロメニスティー」という4つの区域に分けました。イェウヘンから最も遠いのは、チェチェン人が占領していた「プロメニスティー」収容所でした。占領解除後、カディロフの部下(カディーロウツィ)が収容所の地下室で民間人の捕虜を拷問し、殺害していたことが判明しました。ロシア人とブリヤート人が残りの部分を占領しました。最初の頃には、占領者同士が撃ち合うこともありました。ロシア軍の装備にはすべて「V」の文字が記されていたにもかかわらず、通常の通信手段が無かったことと、ウクライナ軍に対する明らかな恐怖から、彼らは街中で戦闘を始めました。イェウヘンは次のように説明しています:

「ここに4~5台の車両が移動していて、突然、中央から攻撃を始めました。10分間彼らは互いに殺し合いをしていて、後になってようやく彼らはそのことに気づきました。」

占領が始まった初日から、ブチャでは夜間外出禁止令が出されました。この間、イェウヘンは毎日、アパートから1キロ半離れた母親の家に食料を届けに出かけていました。店は閉まっていたので、市場や倉庫で食料を探さなければなりませんでした。物資がほとんどなくなった3月の第3週の終わりには、人々はゴミ捨て場に食料を調達しに行くようになりました。しかし、それはまだ最悪の状況ではありませんでした:

「ある日、友人たちがPedigreeの18キロ入りの袋が手に入る場所をメッセージで教えてくれました。私たちはそれをかろうじて家に持ち帰りました。食べ始めて、これは大丈夫だとわかりました。そう、私はドッグフードを食べていたのです。」

ロシアの検問所やパトロールに、イェウヘンは頻繁に遭遇しました。各セクターに4~6カ所の検問所がありました。検問を受けるたびに、身ぐるみ剥がされ、体にタトゥーや銃を使用することによってできる痣がないか調べられました。それから、彼はなんとか兵士たちと話をすることができました。

「交渉のルールについては少し知っていたので、まず彼らの質問にすべて答え、それから自分でも質問するようにしていました。彼らは22歳から25歳の兵士でした。彼らはアメリカ人に悪態をついていましたが、ショッピングモールを彼らが略奪したときに彼らが最初に探していたのはiPhoneでした。『おい、ここではどの家にもノートパソコンかパソコンがあるんだぞ!』というブリヤート人2人の会話が、誰もいない商業施設に私が身を隠している時に聞こえてきました。ブリヤート人とのコミュニケーションは最も難しく、彼らとロシア語で話しても、分からない部分もありました。」

ある検問所で、イェウヘンはベラルーシの兵士に会いました。彼曰く、ベラルーシ兵は、なまりと現地人に対する誠実さで見分けがついたそうです。ロシア人・カディロフ兵・ブリヤート人が攻撃的で横柄な態度をとるのに対し、ベラルーシ人は穏やかで「それほど凶暴ではなかった」ようです。

2月末から、ブチャではお金の流通がほとんどなくなりました。通貨取引は物々交換に取って代わられました。タバコが最も価値のある商品でした。イェウヘンによると、2月24日以前はプリルーキ(ウクライナのたばこ)1箱が35フリヴニャだったのに対し、占領2週目には350~400フリヴニャになっていました。Camel Blueは600フリヴニャ、Davidoffは800~850フリヴニャでした。イェウヘンはタバコを吸いませんが、戦前は会社の従業員のために3カートンのタバコを購入したものの従業員に渡す時間がありませんでした。彼は「金のストック」を持っていたと言います。彼はプリルーキ1箱を魚1キロと交換しました。自転車1台はタバコ2箱と交換でした。タバコに命を救われたこともありました:

「占領が始まって最初の週でした。私はスキージャケットを着ていました。その内側に大きな深いポケットがついていました。そこには、プリルーキのパックと私の携帯電話が入ってました。パトロールに呼び止められ、ジャケットのファスナーを開けると、ポケットに何か入っているのが彼らには見えていました。携帯電話だけだったら、どうなっていたかわかりません。でも、そのままポケットに手を入れてタバコを渡すと、携帯は見られませんでした。それ以来、家を出るときは携帯を持たなくなりました。」

イェウヘンは携帯電話を家で使用する必要がありました。外に出るたびに、またロシア兵がどこに駐留していて何人いてどのような装備を持っているのかを調べるためにも使っていました。そして家に戻って電話を取って6階に上がり、テキストメッセージでウクライナ保安庁に座標を送りました。その後、メッセージを削除して家に戻りました。携帯電話の電源は、情報を送信するためだけに入れます。彼はバッテリーをフル充電していたので、占拠期間中ずっと電力が持ちました。毎日7~8キロ歩ていました。体重は1カ月で12キロ減りました。

自爆しないように注意する

占領下のブチャでは、イェウヘンの朝は6時50分に庭で焚き火をすることから始まりました。前の夜に、薪にカバーをかけるのを忘れないようにすることがとても重要でした。夜の間に雪で薪がぬれて、火をつけるのが難しくなってしまうからです。ロシア兵が二度目にやってくる前に、市場で調達したパレットで火をつけていました。ストーブの代わりに、6個のレンガと網を使いました。コップ2杯分のお湯を沸かすのに約40分かかりました。イェウヘンはまず、自分と妻のためにコーヒーを淹れ、それから彼の住宅に住む18人のお年寄りのために食事を作り、それから街に出ました。

「占領下の街に残った人たちは、お互いに知らなくても道で挨拶を交わすという習慣が私たちの間にはありました。」

次から次へと自身の体験を思い出しながらイェウヘンは話してくれました。ロシア人は教会広場の領土ではブチャの人々を殺害しませんでした。しかし、この場所は遺体が残された通りに似て恐ろしい場所です。教会の裏手、中庭の舗装に使われる予定だった石畳のすぐ前に、遺体が溝に埋められていました。後で掘り起こすために、ブチャ中の自治体職員が集めたのです。

遺体が運び出されてからすでに数週間が経ちますが、世界各地から取材陣が訪れています。そのうちの何人かは幸運にも、疲労困憊したアンドリー神父に会い、ここで起こったことを神父から聞きました。神父は彼らを教会に連れて行き、犠牲者の手や頭が地面から浮かび上がっている恐ろしい写真を展示したパネルを見せました。

私たちのそばを外国人の一団が通り過ぎていました。当時、ブチャではロシア人占領者が4回交代で来たとイェウヘンは教えてくれました。彼らは7~10日間ほどやって来ました。新しいローテーションが計画されたことは、略奪が急増したことからも明らかです。彼らが去る1日か2日前、ロシア兵はウクライナの財産をできるだけ略奪しようとしました。まず、彼らは金とドルを奪いました。

「とても手際よく強盗をしていました。彼らはそのための特別な斧を持っていて、それでドアを5~7秒で壊しました。ドアの枠と一緒に壊していました。しかし、恐ろしいことはほかにもありました。私が話した鉱夫たちによると、ロシア人は手榴弾を冷蔵庫の冷凍庫や洗濯機のドラム缶、飼料の袋の下に置いていったそうです。私の友人の母親のアパートでは、ドアの外側にワイヤートラップが仕掛けられていました。」

占領から解放されて2カ月が経った今も、ブチャの地雷除去は続いています。遅れているのは、地雷撤去作業員が家の所有者を待っているためです(地雷撤去作業員は、個人の住宅に入る権利がないため)。街にも地雷はたくさんあります。通りには時折、地雷を警告する手作りの看板が立っています。郊外では、森に入ることはおろか、道路から離れることも禁止されています。専門家によると、ブチャ地区の地雷除去には少なくとも5年はかかるとされています。

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民間人に最大の被害を与えようとするロシア軍の試みをどう説明できるかという問いに対して、イェウヘンはは彼自身の質問で答えています:「動物の心理を説明できますか?私はできません。」彼はよく自分の妻のことを思い出しています。彼女は彼を一人で外に出すことを許さず、一緒に歩くことを勧めていました:

「占領されている間、妻は一度も泣いたことがありませんでした。たとえ、ひどい状況があったとしても泣きませんでした。ショッピングセンターの前を歩いていたら、突然、機関銃の音が聞こえました。私たちは地面に伏せました。3分か5分、沈黙が続きました。這うようにと、私は言いました。それで私たちは少し這い、横になって、自分たちの道なりに進みました。2軒先に検問所があり、彼らはどこかに向かっていました。静寂の中、彼らは私たちを追っているように感じました。」

魅力的でないようにする

イェウヘンの妻の名前はオレーナです。褐色の髪に細い声の美しい女性です。3月の出来事について語るとき、彼女の声は明らかに震えています。夫と一緒に歩き、犬を連れて行けば、イェウヘンが助かる可能性が高くなるということを、オレーナが直感的に理解しました。それに、もし彼に何かあったら、彼女はそこで助けることができます。家にいてイェウヘンは大丈夫かと心配するよりも、一緒にいるほうが楽だと、オレーナは述べています。

犬をリードでつないで、周りの音に耳を傾け、前方を注意深く見ながら道を歩くイェウヘンとオレーナを想像すれば、最初に思い浮かぶのは恐怖心です。しかし、オレーナはそれを否定します:

「爆撃や銃撃が始まった当初から、私の中の何かが変わりました。それまで弱かったものすべてが強くなりました。怖かったことが怖くなくなりました。軽い気持ちだったとは言いたくありませんが、検問所を通り過ぎたり、人々がどこかに連れて行かれたり、遺体が隣に倒れているのを見たりすることも怖くありませんでした。今考えるとどうそれを乗り越えてきたかわからないですが、当時はこの恐怖がすぐに終わるという希望が常にありました。」

ところが、ブチャの街を歩くだけでなく、家にいるのも危険でした。ロシア兵は空き家となったアパートだけでなく、人のいる家の中にも入ってきました。ある日、庭で昼食の支度をしていたオレーナが、占領軍が家と家の間を歩いて人々を「訪問」しているのを目撃しました。すぐにイェウヘンに電話して警告しました。オレーナとイェウヘンは電話を隠しました。その後、オレーナはスカーフをかぶり、化粧をしました:

「スカーフで髪を隠し、アイシャドウをしました。ただ、目の下にアイシャドウをして、あまり魅力的でないように見せるようにしました。」

彼女がこの変装を思いついたのは、前日に起きたある出来事がきっかけでした。イェウヘンとオレーナがイェウヘンの母親に食料を運んでいるところを、通りの反対側の戦車に座っている占領軍の兵士たちが見ていました。兵士の一人であったブリヤート人が、オレーナに来るように叫びました。

「タバコしか持っていないけど分けてあげる、と私は言いました。彼はそれを受け取ると、私に『行くぞ』と言いました。私が冗談を言うと、彼は『よし、行け』と言いました。今となっては、あのときの自分がいかに幸運だったかがわかります。」

3月の終わりの日の中で、オレーナはアンナという女性のことを一番はっきりと覚えています。彼女は近所に住む50代の女性で、1日に何度も顔を合わせていました。アンナは怖がらず、いつも笑顔だったと言います。「とても陽気な人でした」とオレーナはアンナのことを思い出しています。イェウヘンは、攻撃から身を守るために、上着を着替えないようにアドバイスしました。しかし、アンナはその忠告を無視して、毎日おしゃれな格好をしていました。占領の最後の週に、彼女は姿を消しました。

「ジェーニャ(イェウヘン)と私は、アンナにはボーイフレンドがいて、そのボーイフレンドのもとから避難したのだと冗談を言ったものです。そして、私たちの軍が街に入ってきたとき、新年を迎える前に亡くなった父に会いに私は墓地に行きました。すると、お墓のひとつにアンナの写真があったんです。彼女は生前と同じように明るく見えました。」

楽観的であり続けること

ロシア軍による侵略が始まった当初から、イェウヘンはViberで占領に関する日記のようなものをつけていました。そのグループには、ブチャで起きていることについて短いメッセージを以下のように書いていました:「朝、いつものように教会の近くで、戦車と『グラード』がイルピンを攻撃していました。5回目です。」「今日、ヴォクザーリナ通りに更に遺体が2つ現れました。40~45歳くらいの女性と男性でした。」その数日後、イェウヘンはウクライナ保安庁から連絡を受けました。彼はロシア軍の陣地の座標を直接送りました。ウクライナ保安庁のチャットボットは現場からの写真が必要でしたがそれは不可能であったため、この用途には不向きでした。

5月中旬、The New York Timesは、ブチャで8人が処刑された映像を公開しました。3月4日に街頭カメラで撮影された映像には、ロシア兵に連行される人々の姿が映されていました。ドローンから撮影された別の映像には、これらの人々が死亡している様子が映っています。この資料の作者は、処刑されたのはウクライナ東部での対テロ作戦のメンバーだと記載しています。

ウクライナ東部での対テロ作戦のメンバーをロシア軍に引き渡したり、占領軍に協力した人がブチャにいたかどうか、イエヴェンに尋ねてみました。イェウヘンはうなずきながら、こう付け加えました:

「ロシア兵と関係を持った3人の女の子のことも知っています。そのうちの2人はもう200番(死亡した人を示すコード)です。一人はポーランドに逃げました。でも、みんな彼女のことを知っているから、ここでは暮らせません。」

3月末、キーウ州にいたウクライナ軍はロシア軍を包囲しました。29日の朝、オレーナは目を覚まし、イェウヘンに「何かおかしい、銃声が違う」と言いました。翌日、彼らは別の音を聞きました。その音は、軍事兵器が街を去っていく音でした。そして3月31日、ブチャの市長は、ロシア軍はもう市内にいないと言いました。

占領軍が去ってからウクライナ軍が到着するまでの数日間、イェウヘンは街を歩き回り、友人たちに頼まれて友人たちの家の写真を撮りました。街から避難した人たちは、自分の家が被害を受けていないか心配していました。

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占領中に恐怖を感じなかったかイェウヘンに尋ねました。イルピンにいる娘たちの命が心配だっただけだとイェウヘンは話しています。しかしその後、彼らはまずザカルパッチャ地方に、それからポーランドに移りました。イェウヘンは、心理学者や精神科医に相談する必要はないと言います。

「占領中、私は決して酒に手を出しませんでした。隣の家に砲弾が落ちたときは、飲みたくなりましたが。私と同年代の男性で、おかしくなってしまった人を2人知っています。一人は銃撃戦の中に飛び込んでいってしまいました。もう一人は生きていますが、独り言を言っています。」

聖アンドリー教会の広場だけでなく、ブチャのジャーナリストがよく集まるのはヴォクザーリナ通りです。外国人記者とウクライナ人記者の違いは、遠くからでも見分けがつくことがあります。ウクライナ人記者は、家の廃墟を暗い顔で静かに見ています。一方、外国人は被害を受けた人たちにインタビューしている間、陽気におしゃべりしていたり、静かにタバコを吸っていたりします。

5月になると、街に戻ってくる人が増えました。路上で友人や隣人に会うと、ブチャの住民たちは抱き合ったり泣いたりしていました。占領を見たことも、占領から逃れたこともない人たちには、ほとんど理解し難いことでしょう。イェウヘンもまた、そのような状況が理解されづらいことについて次のように述べています:

「そういうことを経験したことのない人たちとの間には大きなギャップがあります。電気も水もなく、ゴミ箱から食べ物を出して生活していたことを話しても、信じてもらえません。ここでは、1日が1年のように感じられました。」

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ブチャでのこの会話の後も、イェウヘンは占領された街の話をし続けました。さらに数日の間、写真・記事のリンク・日記の抜粋をViberで彼はシェアしてくれました。最後に送られてきた写真はエネルヘーティキ通りのものでした。桜の木が綺麗な花を咲かせています。

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

ヴォロディーミル・モロディー

フォトグラファー:

カテリーナ・モスカリュク

翻訳:

藤田勝利

Ukraїner Internationalコーディネーター:

ユリヤ・コジリャツィカ

Ukraїner International編集長:

アナスタシヤ・マルシェウシカ

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

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