ウクライナは何世紀にもわたってロシアの植民地だったことから、ウクライナの文化は非常に困難かつ劇的な状況の中で発展しました。「兄」による数々の抑圧、禁止、弾圧により、ウクライナの芸術家は、キャリアや命が危険にさらされても自分たちの文化に忠実であり続けるか、 自分のルーツを忘れて帝国に仕えるか、あるいはこれら2つの戦略をうまく使い分けて切り抜けるか、といった選択を迫られました。彼らの運命はこの選択にかかっていました。だからこそ、ウクライナの遺産としての多くの芸術家の伝記や創造的な作品は、今も再検討される必要があるのです。ロシアがかつて彼らにどのような影響を及ぼしたのかを知る必要があります。
歴史の複雑さを認識し、関係性と意味を特定し、再解釈し、受け入れることは、植民地時代のトラウマを乗り越える一助となります。言い換えれば、トラウマを乗り越えることが非植民地化であり、社会生活にとって必要であると同時に、ウクライナの芸術にとっても必要なのです。ウクライナー / Ukraїnerは、特別プロジェクト「非植民地化」の一環として、様々な分野の専門家とともに、ロシアがどのようにウクライナ人を肉体的あるいは精神的に服従させたのか、そしてウクライナ人がどのようにロシアとの関係を断ち切るべきかを伝えています。このプロジェクトは、強奪された文化遺産の返還に関する特集記事から始まりました。今回は、侵略国があらゆる手段を講じて弾圧し自分たちのものとされ、その才能と創造的栄光を沈黙させられたウクライナの芸術家たちに関する記事です。
Projector Instituteとウクライナ研究所のクリエイティブディレクターであるテチャーナ・フィレウシカとともに、彼らについて伝えていきます。彼らの伝記は文化的植民地化のプロセスをよく表しています。彼らをより深く知ることは、ウクライナや世界の文化における芸術家の重要性を理解する一助となるだけでなく、植民地解放の緊急性を視覚化するのにも役立ちます。
文化的植民地化の歴史的要因
1721年、モスクワ大公国は自らをロシア帝国と名乗りました。古典的な西洋の帝国とは異なり、海の外に植民地を持たず、人種に基づいて住民を分割することもありませんでした。ロシアは未開であると自らがみなした近隣諸国を植民地化しました。300年以上が経過しましたが、ロシアの主張はほとんど変わっていません。昔から、ロシアはウクライナ人や他の民族に対し、国家・文化・言語・アイデンティティに対する権利を否定しようとしています。ウクライナ語とウクライナ語での出版を禁止するヴァルエフ指令及びエムス法、ウクライナの知識人に対する数々の弾圧、ウクライナ人に対する劣等の烙印など、これらすべてが今日のウクライナ人のあり方に影響を与えました。
ロシアの植民地政策はソ連時代にも続きました。その目的について、ウクライナ研究所のクリエイティブディレクターであるテチャーナ・フィレウシカは次のように説明しています。
— それ(ロシアの植民地政策)は、植民地における文化の発展を抑制し制御することを目的としています。文化は、様々なコミュニティ・民族・国家のアイデンティティを形成し、伝達します。そのため、文化は「危険」なものと考えられたのです。帝国は常に植民地を糧としています。人材を含む資源を奪い、使い果たします。もちろん、(ロシア)帝国は最も才能があり、最も知性があり、最も進歩的な人材を集めることを目指しており、この歴史はずっと繰り返されてきました。 ウクライナが独立した後の数年間さえも、です。
ウクライナの知識人を標的とした破壊は、ウクライナや世界の文化にとって取り返しのつかない損失です。芸術家としての人生、そしてしばしば人生そのものが劇的に変化するか、あるいは終わりを迎えました。 ロシア帝国とソヴィエト連邦のせいで、彼らは文章・絵画・音楽を制作し、演劇を上演し、彫刻を制作することができなくなりました。
現在、私たちはロシア連邦との戦争でおそらく最も苛烈な段階にあります。この戦争は、ウクライナ人にとって文化における非植民地化も意味しています。文化遺産がこれ以上歪められ、芸術家の存在とその作品が横取りされる機会を敵に与えないために、慎重な調査や再検討が必要なのです。
芸術家をウクライナに取り戻すためには、彼らがどのような社会文化的文脈の中で存在したのか、彼らがどのような意味を創造し、育み、そして何に抵抗したのかを理解する必要があります。彼らの作品には、ウクライナに関するロシア帝国の主張が含まれているのでしょうか? 彼らはどのようなアイデンティティを持っていたのでしょうか?(そしてそれは強要されたものだったのでしょうか?)彼らの見解と人生の決断は何だったのでしょうか?芸術は、どれだけ望んでも、社会的及び政治的な状況から完全に切り離すことはできないので、この文脈を考慮して芸術家を認識する必要があるのです。
レシ・クルバスとミコラ・クリシュ:ソ連当局により活動を禁止されたウクライナ芸術家
弾圧され活動を禁止された芸術家といえば、処刑されたルネサンス世代(1920年代から1930年代初頭)の実例を挙げることができます。1930年代には約3万人のウクライナ文化人がスターリン主義による弾圧に苦しみました。ロシア帝国の後継者であるソ連は、ウクライナ芸術を消滅させるためにあらゆる手を尽くしました。スターリンの前後にも弾圧はありましたが、あれほどの規模になったのはスターリンの統治下でした。世代全体の芸術家が殺害されました。彼らの作品は発禁となり、「ブルジョワ国家主義者」、「国民の敵」というレッテルを貼られるか、完全に無視されました。 ロシア帝国にはウクライナ芸術の居場所はありませんでした。
処刑されたルネサンス
1920年代から30年代初頭の文学と芸術の世代のこと。ウクライナでは、文学、絵画、音楽、演劇の分野で高度に芸術的な作品が生み出されましたが、全体主義的なスターリン主義政権によって破壊されました。レシ・クルバスとミコラ・クリシュもこうした弾圧による犠牲者です。処刑されたルネサンスの象徴の一つであるハルキウの「スローヴォ」(ウクライナ語名:Слово)という建物(詳細は後述) 写真:proslovo.com
レシ・クルバスとミコラ・クリシュは、この時代を代表する芸術家です。二人の創造的なコラボレーションは、新しいウクライナ演劇を体現していました。二人は近代ヨーロッパの演劇と表現主義に関心を持っていました。当時の最先端の演劇は言葉や動作を排し、精神的な存在とその躍動を表現しました。芸術家はそれまでの伝統や劣等感に従うことを拒否し、芸術的自由を主張しました。彼らは仮面を物体としてではなく、見る人に考えさせ、想像させるために使いました。これはヨーロッパのドラマツルギーの伝統に対する模倣でもありました。1926年にキーウからハルキウに移転したクルバスの実験劇場「ベレジル」(ウクライナ語名:Березіль)も同様の劇場でした。ここで二人は出会ったのです。彼らの見た目は大きく異なっていました。英国風のスーツを着た洗練されたクルバスと、お下がりの服ばかり着ているちょっと無骨なクリシュです。しかし、この二人は演劇への熱狂的な愛と新しい流行への関心によって結ばれていました。
劇場「ベレジル」
レシ・クルバスにより創設されたウクライナ・モダニズムの実験的な劇場。クルバスは、ウクライナの伝統的な演劇とヨーロッパ演劇の最先端の形式を統合しようとしました。ウクライナの監督、俳優、演劇理論家、劇作家、広報担当者、翻訳者であるレシ・クルバス オープンソースからの写真
ウクライナの作家、監督、劇作家のミコラ・クリシュ オープンソースからの写真
「ベレジル」は常に実験を続け、時代に追いつき、伝統的、民族的、日常的な演劇の道を避けました。レシ・クルバスはヨーロッパの流行に注目し、モスクワでの公演を断りました。ミコラ・クリシュとともに、「ベレジル」の舞台で彼らの代表作である「ミナ・マザーイロ」(ウクライナ語名:Мина Мазайло)、「民衆のマラキ」(ウクライナ語名:Народний Малахій)、「マクレナ・グラサ」(ウクライナ語名:Маклена Граса)を上演し、賞賛と同時にソ連による激しい批判を引き起こしました。
劇場「ベレジル」での「マクレナ・グラサ」の公演 写真:openkurbas.org
「マクレナ・グラサ」は象徴的な演劇です。当時特に深刻だった社会における芸術家の運命について語っています。演出は非常に暗く、脚本の原文では主人公のマクレナが太陽に向かって走っているのに、演劇のセットには太陽がありませんでした。これが「ベレジル」でのレシ・クルバスの最後の作品であり、ミコラ・クリシュの最後の演劇ともなりました。二人はすぐに逮捕され、1937年にサンダルモフで射殺されましたが、同じ銃弾で死亡したと言われています。
サンダルモフ地区
カレリア共和国(ロシア連邦)の森林地区。 1930年代、ソ連の内務人民委員部が58の国籍の9,000人以上の人を射殺しました。1937年10月27日から11月4日にかけて、ウクライナの文化・科学エリートに対する大量虐殺が行われました。1997年に虐殺現場が発見されました。このような恐ろしい事実は、記憶される必要があります。国民の記憶、つまりロシア帝国が破壊しようとしているアイデンティティの重要な要素を形成するものだからです。ソ連当局が優れた芸術家を抹殺していなかったら、ウクライナ文化がどのようになっていたか、今となっては想像することしかできません。テチャーナ・フィレウシカはこう考えています。
— もし処刑されたルネサンスの芸術家たちが生き残っていたら、なぜ文化が必要なのかということを現代の私たちが理解することは難しくなかったでしょう。私たちの文化は、強く、一般的に認知されたもので、世界に必要とされ、産業的、経済的にも発展していたはずです。
ソ連は、レシ・クルバスとミコラ・クリシュの創造的業績がソ連国内で言及されないよう徹底しました。当局は二人を「危険人物」と呼び、彼らの活動を自国の政権への脅威とみなし、彼らの自由と命を奪いました。例えば、1933年、レシ・クルバスは共和国人民芸術家の称号を剥奪され、自分の劇場から追放されました。ミコラ・クリシュは党から追放され、彼の作品である「民衆のマラキ」と「ミナ・マザーイロ」は発禁となり、1934年にはテロ組織に所属した疑いで逮捕されました。
さらに、1930年代には、アヴァンギャルド芸術が唯一の正しい芸術的手法として社会主義リアリズムにとって代わられたため、1920年代の芸術界で起こったことは「受け入れられない」ものとなりました。
社会主義リアリズム
社会主義リアリズムは、1934年から1980年までソ連で公式に許可された唯一の疑似芸術手法です。芸術家は党の利益に奉仕し、イデオロギーの原則を遵守しなければなりませんでした。芸術家たちはソ連の現実をありのままに描写しましたが、これは反ソ連的なプロパガンダであると告発され、弾圧されました。幸いなことに、ソ連当局は、これらの創造的な人物と彼らの作品に対するウクライナ人の関心を鎮めることはできませんでした。彼らの功績は今でも話題に上り、そのために彼らは現在でも常に注目されているのです。そして、彼らに関する記憶が適切に尊重されるよう配慮されています。例えば、ウクライナの10以上の町が、レシ・クルバスにちなんで名付けられました。リヴィウには彼の名を冠した学術劇場があり、キーウには同じ名前のセンターがあります。2022年、レシ・クルバスの最も完全な遺稿集「クルバスの哲学(ウクライナ語名:Філософія Курбаса / フィロソーフィヤ・クルバサ)」(2001年に出版された書籍の再版)が出版されました。ヘルソンの劇場やウクライナの様々な都市の通りはミコラ・クリシュにちなんで名付けられ、ヘルソン地方行政管理局はミコラ・クリシュの名を冠した地域文学賞を創設しました。
ミコラ・ホーホリ(ロシア語名:ニコライ・ゴーゴリ)、アナトリ・ペトリツィキー:ロシアにより自分たちのものとされたウクライナの芸術家たち
ロシア帝国がウクライナを占領し国家を破壊する前、ウクライナにはより発展した、より活発な文化活動がありました。テチャーナ・フィレウシカは当時のことをこのように説明しています:
— 当時のウクライナには学術教育機関、芸術家、素晴らしい音楽界などが存在しましたが、モスクワ大公国にはそのようなものはありませんでした。そして、ロシア帝国は、自分の偉大さを示すために策略をめぐらし、当時の最先端にいた人々を、地方と見なしたウクライナから中央のモスクワに移住させる必要があったのです。ウクライナのものをすべて自分のものにしたいというこの願望は、モスクワ大公国がウクライナより劣っているという劣等感に基づいているのです。モスクワのすべての機関を作ったのは誰でしょうか? フェオファニー・プロコポヴィチーです。
フェオファニー・プロコポヴィチー
ロシア帝国の利益に貢献しただけではなく、その存在の基礎を形作るのに貢献した、ウクライナの教育者や宗教者などの知識人の集合体を意味する単語。その中に、神学者・哲学者・科学者・宗教家・教育者・政治家・作家で、キーウ・モヒラ・アカデミーの学長(1711年~1716年)のフェオファン・プロコポヴィチがいます。彼はピョートル1世を支持し、作品の中で彼と彼の政治を称賛し、モスクワ大公国の名前を改名する際、ギリシャ語のルーシという名前を提案しました。ロシア帝国における教会の国有化に貢献しました。サンクトペテルブルクに移った後、主教の階級を与えられ、ピョートル1世の顧問となり、様々な宗教的機関や科学的機関を設立し、その発展に寄与しました。(ロシア帝国時代もソ連時代も)ウクライナの芸術家にとってのもう一つの大きな問題は、アイデンティティの問題でした。彼らはしばしば当局によってレッテルを貼られました。彼らはある時はウクライナ人であり、ある時はロシア人だったのです。これは芸術家を横取りしようとする排外主義的なロシアの主張の一つでした。 しかし、ウクライナの歴史には、明言することが難しい人物もいます。例えば、ロシア帝国のために仕えたウクライナ人ミコラ・ホーホリは、ウクライナとロシアどちらの人間なのでしょうか? テチャーナ・フィレウシカは、アイデンティティの難しさについて次のようにコメントしています。
— アイデンティティは流動的なもので、単一のものではありません。人間は一生を通じて自分自身を再定義することができ、民族的・文化的・政治的・社会的存在など、複数のアイデンティティを持つことができます。ロシア帝国は、文化人を横取りし、アイデンティティの複雑さを無視し、ロシア人というアイデンティティのみを押し付けているため、問題があるのです。非植民地化により、アイデンティティの複雑さが見えてくるでしょう。
ミコラ・ホーホリの肖像、フョードル・モラー、1840年 トレチャコフ美術館所蔵
ウクライナの文学界においても、ミコラ・ホーホリについては、様々な見解があります。ホーホリは、 ある人にとっては、「間違った」選択をした結果その代償を支払った作家であり、ある人にとっては、その時代の申し子であり、またある人にとっては、ロシア帝国に対する隠れた批判者でもあります。それぞれの説は、ホーホリの伝記・作品・遺稿などに記された事実に基づいています。ホーホリの「分裂したアイデンティティ」が、どの説に近いのかを答えるのは困難です。
しかしながら、私たちは、ウクライナの文化におけるミコラ・ホーホリの重要性を否定し、ウクライナの遺産における彼の地位を奪うべきではありません。ウクライナの有名な作家や文化人であるタラス・シェフチェンコ、パンテレイモン・クリシュ、ミハイロ・ドラホマノウは一貫して、ホーホリをロシア語で執筆するウクライナ人作家とみなしていました。ホーホリの作品には、ロシア排外主義的な表現が見られますが、それはロシア帝国での生き残りと適応のための戦略であり、ウクライナを憎んでいたわけではありません。ホーホリは生涯をかけてウクライナの歴史を研究し、民間伝承を収集しましたが、それは彼の作品に反映されています。例えば、作家で学者のイェウヘン・マラニュクは、ホーホリの小説「五月の夜(または水死女)」(ウクライナ語名:Травнева ніч, або Утоплена)の中の次の一節を賞賛しました:「ウクライナの夜を知っていますか? ああ、ウクライナの夜を知らないのですか! 見てください。お月様が空から見ています。果てしない空の天井が広がっています。空が燃えて息づいています。地球全体が銀色の光に包まれています。そして、妙なる空気が熱気と冷気を吹き込み、祝福の呼吸をし、芳香の海を放っています。素晴らしく、魔法のような夜なのです!」
絵画「ドニプロ川の月夜」(ウクライナ語名:Місячна ніч на Дніпрі)、アルヒープ・クインジ作、1880年 国立ロシア美術館所蔵
ミコラ・ホーホリは、ウクライナ国家の明るい未来を夢見ていただけではないので、彼を英雄視する必要はありません。現在、ロシア人はホーホリをロシアのものだと考えています。ロシア国立図書館のウェブサイト、数十の百科事典や教科書、ウィキペディアのロシア語版、そしてもちろんロシアのメディアのほとんどが、ホーホリを「ロシア古典文学の作家の一人として認められた小説家」、「ロシア文学の最も偉大な作家の一人」などと見なしています。しかし、ミコラ・ホーホリをロシアに「渡す」理由などありません。テチャーナ・フィレウシカが言うように、ロシア帝国における作家の活動は容易ではありませんでした。
— ロシアは、ウクライナの資源を横取りし使い果たし、手に入れた才能を自分たちのものにしました。これらの資源が帝国の発展を可能にしたのです。帝国時代に生きることは、帝国のアイデンティティに適応して受け入れるか、帝国によって弾圧され破壊されるかのどちらかであったことを理解する必要があります。芸術家の命とロシア文化への貢献は、このような個人的な選択にかかっていたのです。
泥棒国家のロシアは「ロシアかウクライナの作家」などという曖昧な言説を使い、自分が必要とするものを作るために歪曲するのです。
ホーホリと同様、芸術家アナトリ・ペトリツィキーにも劇的な運命が降りかかりました。ペトリツィキーの友人や仲間とは異なり、彼は弾圧されませんでした。しかし、ソ連は芸術家にとって不可欠なもの、つまり彼の才能を横取りし、破壊しました。
アナトリ・ペトリツィキーの自画像が描かれた雑誌「ニュー・アート」(ウクライナ語名:Нове мистецтво)の表紙 オープンソースからの写真
オレクサンドラ・エクステルとヴァシリ・クリチェウシキーの弟子であったアナトリ・ペトリツィキーは、1920年代のウクライナ芸術の真のスターであり、ウクライナのアヴァンギャルド芸術における天才でした。ペトリツィキーは、演劇・絵画・本の挿絵・雑誌「文学フェア」の編集局での仕事など、様々な分野で常に挑戦し続けました。彼の作品は時代の躍動とリズムを体現し、ウクライナの輝かしいアイデンティティを持っていました。1930年には、アナトリ・ペトリツィキーの絵画「障がい者」が、現代美術の国際展示会である第17回ヴェネツィア・ビエンナーレの展示作品に選ばれました。
アナトリ・ペトリツィキーによる絵画「障がい者」(ウクライナ語名:Інваліди)、1924年 ウクライナ国立美術館所蔵
「障がい者」で、ペトリツィキーは第一次世界大戦による影響を描きました。そのため、戦後のヨーロッパで、この作品は大きな反響を呼び、大きな成功を収めました。ビエンナーレの後、ベルリン・ベルン・ジュネーブ・チューリッヒさらにはニューヨークまでめぐった国際展示会の展示作品に選ばれました。コレクターたちはこの絵の購入を望みましたが、アナトリ・ペトリツィキーはウクライナに返還されるべきだと主張しました。ペトリツィキーの主張した通り、絵は戻ってきましたが、ソ連では全く異なる見方で認識され始めました。芸術の分野でイデオロギーの変化が起こったのです。社会主義リアリズムが唯一の正しい芸術手法として導入され、当局はアヴァンギャルド芸術をソ連社会にとって危険なものとみなし、形式主義と現実の歪曲として非難し始めました。
1920年代に許されていたことが、1930年代の芸術家にとっては命取りとなりました。アナトリ・ペトリツィキーはハルキウの「スローヴォ*」という建物に住み、仕事をしていましたが、その住民のほとんどが弾圧の犠牲者となりました。彼が1920年代に描いた一連の肖像画は、その後の10年間に収容所に送られたり射殺されたりした作家・劇作家・芸術家を描いたものでした。芸術家だけではなく、彼らの肖像画も消えてしまいました。100点を越える作品のうち、わずか十数点しか残っておらず、私たちにウクライナの知識人の破壊された世代と歴史的記憶を保存する必要性を思い出させます。
スローヴォ(ウクライナ語名:Слово)
1920年代の終わりにハルキウに建てられた住宅。著名なウクライナ人作家が多く暮らしていたこの住居は、上から見るとウクライナ語の”С”、つまりСлово(日本語で”言葉”という意味を指す単語)の最初の文字である”С”に建物の形が作られています。当時この住居で生活していた多くのウクライナ人作家や詩人たちは、サンダルモフ地区でソ連共産党当局により銃殺されました。(「サンダルモフ地区」、「処刑されたルネサンス」については先述)ミハイロ・セメンコの肖像、アナトリ・ペトリツィキー、1929年 ウクライナ国立美術館所蔵
ピリップ・コジーツィキーの肖像、アナトリ・ペトリツィキー、1931年 ウクライナ国立美術館所蔵
ホルディー・コチュバの肖像、アナトリ・ペトリツィキー、1925~1931年 ウクライナ国立美術館所蔵
ペトリツィキーは奇跡的に弾圧を逃れ、70歳まで生き延び、新たな現実にも適応することができました。しかし、彼の運命の悲劇はまさにここにあります。彼は自分自身のアイデンティティを放棄しなければならなかったのです。彼にとって、前衛的な探求、新しい時代のリズム、動きと音、ウクライナのアイデンティティと世界的名声、これらすべてが1920年代で終わってしまったのです。アナトリ・ペトリツィキーは、複雑な感情を抱え傷付いたたまま、この世を去りました。これは、1930年から1944年まで「スローヴォ」の建物に住んでいた芸術家で画家のテチャーナ・ヤブロンシカの回想によって明らかとなっています:「私は1952年にクラクフに行き、社会主義リアリズムの利点を抽象主義者に懸命に説明してきました。キーウに戻った後、私は芸術家たちに西洋文化の衰退について話しました。ペトリツィキーは私のところに来て、『どうして自分が知らないことについて話すのですか?』と言いました。 私は恥ずかしいと思いました。翌日、ペトリツィキーは党大会で演説し、党組織書記として演壇に立ち、昨日私が使った『腐った西側』の言葉で西洋文化を貶めました。」
アナトリ・ペトリツィキーの作品:オペラ「トゥーランドット」の舞台衣装のスケッチ、1928年 ウクライナ演劇・音楽・映画芸術博物館所蔵
演劇「ヴィイ」(ウクライナ語名:Вій)の衣装のスケッチ、1925 年 オープンソースからの写真
亡命の中で忘れられたウクライナ人芸術家:ソーニャ・ドローネー(ソニア・ドローネー)、オレクサンドル・アルヒペンコ(オレクサンダー・アーキペンコ)
他の言及すべき芸術家のカテゴリーとしては、移民出身のアーティストです。彼らにとって移住は夢ではなく、生き残るために、そして自身と自身の芸術を守るため、世界のどこかに避難するしかない状況でした。
ウクライナの歴史において、1880年〜1920年・1920年〜1930年・1940年〜1954年・1987年〜2014年(または情報源によっては現在まで)と、移民の波が4つあります。国際的にも認知されているウクライナ人に対するソ連による長年の非難と沈黙が、ウクライナ文化遺産がどれくらいの規模なのかを認識させるという非植民地化のもう一つ課題を現代のウクライナ人に対して突き付けています。
移民であった芸術家の一人がソーニャ・ドローネーです。オデーサ出身の彼女は、20世紀初めにパリへ移住したことから、ソ連時代に彼女について言及されることはなく、ソ連内でも彼女の名前を知っているのは芸術界の狭い界隈のみでした。 一方で、ドローネーはフランスで大成功を収めました。
ソーニャ・ドローネーと背景にある自身の作品 オープンソースからの写真
ソーニャ・ドローネーは、ルーブルというパリの美術館で個展が開催された史上初の女性です。彼女の作品は、ニューヨーク近代美術館とパリのジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センターの常設展として保存されています。 彼女は20世紀で最も影響を与えた画家の一人となり、流行の中心としても知られていました。夫であるロベール・ドローネーと共に、彼女は「シムリタニズム」と呼ばれる独自の美術主義を創造しました。この主義は、フランスの詩人ギヨーム・アポリネールによって「オルフィスム」と名付けられました。
ソーニャとロベール・ドローネー オープンソースからの写真
シムリタニズムとは光の中で色の動きを描くことである、という風にドローネー夫妻は主張しました。ドローネー夫妻はカラフルな円や幾何学的な形を描き、それらの配置によって力強さや協調性を表現しました。
ソーニャ・ドローネーの絵画「リズム」(ウクライナ語名:Ритм)、1938年 出典:パリのジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター
ソーニャ・ドローネーの絵画「コンポジション」(ウクライナ語名:Композиція)、1977年 出典:ニューヨーク近代美術館
ソーニャ・ドローネーはシムリタニズムの考えを絵のキャンバスだけでなく、応用美術にも拡大させました。彼女は洋服や靴、舞台衣装、フランスの工場向けの布地やカーペットなどのデザイン、また絵本の制作、陶器やステンドグラスの制作に取り組み、さらには自動車のドレスアップにまで取り組みました。
1925年の英「Vogue」の表紙に写っているソーニャ・ドローネーの「シムリタニズム」ワンピース オープンソースからの画像
彼女はフランスに住んでいて、フランス文化の影響を受けながらも創作活動をしていましたが、彼女の作品にはウクライナらしさがあることを美術評論家たちが満場一致で認めています。彼女はウクライナのことを忘れず、「明るい色が大好きだ。それは子供の頃の色、ウクライナの色。」と自身の本に綴っていました。ソーニャ・ドローネーの作品はウクライナにとって重要であり、そのため彼女の芸術はウクライナの遺産となっています。
ウクライナ出身で同じ様な芸術家は、彫刻家・画家・グラフィックアーティストであるオレクサンドル・アルヒペンコです。彼はキュビズムの彫刻における創始者であり、(1920年に)ウクライナ人として初めてヴェネツィア・ビエンナーレに参加しました。この彫刻家は世界中で名声を博しましたが、残念ながらウクライナでは彼の名前はまだ一般的には知られていません。
キュビズム
20世紀の美術におけるアヴァンギャルド派の一つで、描かれているオブジェクトの強調された幾何学的な形が特徴的なスタイルです。オレクサンドル・アルヒペンコは、画家たちから形を描く方法を取り入れ、彼の立体未来主義は様々な手法で角度・円・円錐・ひし形のダイナミクスを具現化しました。彫刻家・画家・グラフィックアーティストであるオレクサンドル・アルヒペンコ オープンソースからの写真
オレクサンドル・アルヒペンコはキーウで生まれ、モスクワで一時期教育を受け、その後パリに引越し、パリ美術学校で教育を受けました。その後、ベルリンを経て、アメリカに行きました。彫刻家として、彼は芸術界の渦に巻き込まれ、そしてそれに変化をもたらしました。オレクサンドル・アルヒペンコの名前は、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、フェルナン・レジェ、カジミール・マレーヴィチと肩を並べます。彼の作品は、世界のモダニズム芸術の発展に大きな影響を与えました。
オレクサンドル・アルヒペンコの彫刻「髪を梳く女性」(ウクライナ語名:Жінка, що розчісує волосся)、1915 年 出典:アートギャラリー「Tate Modern」、ロンドン
アルヒペンコは、形式を通じて「ゼロ」の表現可能性を世界で初めて活用した者の一人です。彼は触覚的な要素だけでなく、表現の可能性に制約を設けず、何もない空間としての空間も活かし、あらゆるオブジェクトを十分に補完する手法を使用しました。その印象的な例は、1915年の彫刻「髪を梳く女性」における手の下の空間です。
オレクサンドル・アルヒペンコは、新しい形態のレリーフ彫刻である彫刻絵画を創造しました。彼はまた、キネティック・アートの原理を発見して実証し、当時としては特別で革新的な「アルヒペントゥーラ」という機構を構築しました。この特別な機構が色付きのストリップをスクロールすることで、新しい画像が形成され、つまり見ているものが動いているような錯覚が生まれます。変化する画像による現代の広告看板はこの機構に基づいています。現代の彫刻とデザインは、オレクサンドル・アルヒペンコの発明なしには想像することが難しいものとなっています。
オレクサンドル・アルヒペンコの彫刻「ブルー・ダンサー」(ウクライナ語名:Блакитний танцівник)、1913年 出典:オークションハウス「Christie’s」、ロンドン
オレクサンドル・アルヒペンコの彫刻「ゴンドラの船頭」(ウクライナ語名:Гондольєр)、1914年 出典:The Metropolitan Museum of Art
海外で成功を収めながらも、オレクサンドル・アルヒペンコは自らの起源を忘れることはありませんでした。彼はウクライナの芸術家たちと共に展覧会に参加し、ウクライナ独立芸術家のリヴィウ協会の会員にもなりました。1934年、彼は飢餓に苦しんだ同胞を支援するため、自分の彫刻「過去」をチャリティーオークションに寄付しました。
自分のスタジオにいるオレクサンドル・アルヒペンコ オープンソースからの写真
2004年にキーウで作品の展覧会があったため、アルヒペンコの作品がウクライナに「帰国」しました。現在、彼の彫刻はキーウのウクライナ国立美術館とリヴィウの国立博物館で見られます。しかし、オレクサンドル・アルヒペンコがウクライナ文化に根付き、海外で単にアメリカ人かロシア人の芸術家として認識されないように、文化の盗用を克服するための取り組みが必要です。
オレクサンドル・アルヒペンコの例は、当時の自由思想の芸術家にとってソ連時代がいかに悪条件であったかということと、当時の体制がソ連の人々を国際社会からいかに孤立させていたかを示しています。芸術家の名前を知る人はほんのわずか、或いはほぼ知られていないのです。
ウクライナ人は今何をすればいいのか?
ロシアによる干渉がなければウクライナ文化がどのように発展していたか、については今となっては想像することしかできません。クルバスとクリシュは力を合わせて魅力的な劇を制作していたのでしょう。もしかするとホーホリは自身の内部の葛藤に苦しむことはなかったのでしょう。ドローネーはウクライナに帰国し、作品を沢山残していたのでしょうか。しかし、それは我々が永遠に知り得ないことです。歴史を整理した上で、将来の芸術家たちがこのようなひどいことに巻き込まれないように可能な限りのことをすることがウクライナの課題です。これを実現するためのステップとしては、ウクライナ文化が意図的に一貫して価値を下げられてきた理由を理解することが重要です。テチャーナ・フィレウシカさんは以下のように述ています:
― ウクライナの文化とその重要性やそれに対する認識などが(ロシアによって)意図的に軽視されたことは明白です。コサック国家時代には、中世でも、ウクライナには発展した文化がありましたが、今日では専門家を除き、その事実を知る人はほとんどいません。このような沈黙と軽視は、ウクライナが独立を勝ち取るための戦いの基盤を奪うために行われました。個性・独自性・自分らしく生きること・自分の意志で生きること・人生の考え方に従って生きること・自分自身を実現することなどが礎となっている基本的人権を理解することは、自分が何者なのか、自分の先祖は誰なのかを知ることに基づいています。
研究活動は非植民地化のプロセスで最も重要です。植民地化の結果で生まれた空白を埋めるために、文書を研究したり、調査を行ったり、映画を撮影したり、書籍を出版したり、テーマに沿った博覧会を実施したりするなどといった活動が必要です。一般の人々を対象とする教育活動も必要です。メディアやソーシャルネットワークのコンテンツ、様々なイベント、観光ルートや記念銘板などによる公共空間でのウクライナ文化の紹介などがこれにあたります。テチャーナ・フィレウシカは次のように主張しています:
— 文化を(資金調達や政治的優先順において)最後尾に置くことで、敵に有利な形で戦うことになります。文化に対するこのような過小評価は、帝国の政策に根差しており、抑圧・制裁・軽視がその原因です。 私たちが自分の文化という最も重要なものについてこのように考えさせるために、何世紀にもわたって活用していたのが彼ら(ロシア人)でした。
国は非植民地化のプロセスを支援すべきです。テチャーナ・フィレウシカは、研究と議論のための状況を作り、異なる視点や側面が共存できる安全な場を作る必要性を主張しています。
— 非植民地化により、記憶に残る権利、容赦の権利が与えられます。 そのため、国は、たとえ以前に犯罪権力と連携していた経験があったとしても、過去を受け入れる政策を採用する必要があります。この課題は複雑で、誰もが手をつけたくはないものですが、それを避けることはできません。やらなければならないことです。
しかし、ウクライナの成功はすでに明らかです。2023年からの例として、世界的に有名な前衛芸術家で、約30年間キーウに住んでいたオレクサンドラ・エクステルの通りが完成します。 そして、外国の美術館ですら、ウクライナの芸術家を徐々に非植民地化し始めています。たとえば、ニューヨークのメトロポリタン美術館は、今年、マリウポリ出身の芸術家アルヒープ・クインジをロシア人ではなくウクライナ人として認定しました。
オレクサンドラ・エクステルによる絵画「橋。セーヴル」(ウクライナ語名:Міст. Севр) 出典:ウクライナ国立美術館
ウクライナ人は自分たちのアイデンティティを考え、自らのものと帝国によって植え付けられたものとを区別する必要があります。その後、忘れ去られたものや失われたものを取り戻すことが非常に重要です。これが植民地化された文化の真の意味を理解する唯一の方法です。