ウクライナの文化遺産の返還問題は、他国の植民地時代や戦後期との関連でも議論されており、「返還」という言葉は勢いを増しています。
この記事では、ウクライナが失った文化遺産を取り戻すにはどうすればよいのか?ロシアの文化的犯罪を裁くことは可能なのか?盗まれた文化遺産を取り戻そうとした他国の経験から、私たちは何を学ぶことができるのか?といった質問への答えを探していきます。
文化財返還、すなわち、盗まれたり不法に輸出されたりした文化遺産を取り戻すことは、歴史的正義および国民の記憶を回復する上で極めて重要な役割を果たしています。敵対行為の結果、文化財が被害を受け、または失われる場合、加害国は同程度の価値を持つ文化財を被害国に譲り渡すか、破壊に対する賠償金を支払うべきです。これらの義務は次の国際法によって規定されています。
・文化財の不法な輸入、輸出及び所有権移転を禁止し及び防止する手段に関する条約(1970年);
・世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(1972年);
・盗取または不法に輸出された文化財に関するユニドロワ条約(1995年)
ロシアは現在、国際的な原則や規範を明らかに無視していますが、遅かれ早かれその行動に対する責任を問われることになるでしょう。
第二次世界大戦後の文化財返還の経験
文化財返還の最も広範な実践のひとつは、第二次世界大戦後の各国による文化財返還であると考えられています。理論上では、主な返還過程は戦後数十年の間に行われるはずでしたが、歴史は予期せぬ展開を見せました。1980年代後半から1990年代初頭にかけて、第二次世界大戦中に失われたと考えられていた数千点ものヨーロッパの文化財が、ソ連に秘密裏に保管されていたことが判明されました。この衝撃的な情報は世界中に広がり、失われた文化財を探し出し、返還するという新たな波を引き起こしました。文化財の所有権の回復は、多くの国での政府政策の重要な要素となり、政府間交渉の対象にもなりました。
ドイツ・オーストリア・ハンガリーへの文化財返還
戦争で被害を受けた国々だけでなく、ドイツとその旧同盟国も、失われた文化財を取り戻そうとしていました。戦後ドイツ当局の代表は、特にモスクワに対して多くの主張を行いました。なぜなら、当時のロシア・ソヴィエト連邦共和国の領土には、歴史・美術・考古学的遺産など、おそらく最も多く盗取されていたからです。しかしモスクワは、このような申し出は第二次世界大戦の結果を見直そうとするものであり、敗戦当事国に文化財を返還する理由はないと述べました。
第二次世界大戦中にドイツ軍によって盗まれた美術品を持ってクラクフに来たカロル・エストライヒャー博士
1998年、ロシア連邦は「第二次世界大戦の結果としてソ連に譲渡され、ロシア連邦の領土に所在する文化財に関する法律」を採択しました。その規定によれば、当時ロシア・ソヴィエト連邦共和国の領土にあったドイツとその旧同盟国の文化財はロシア連邦の財産であり、戦争中にドイツとその同盟国によってロシアの文化財に加えられた損害に対する賠償の一部となります。実際に、それは他国の文化財を合法的に没収するものでした。
第二次世界大戦の終結から50年以上を経て、盗まれた文化財の所有権を確保するというロシアの決定は、批判の集中砲火を浴びていました。ドイツや他の国々は、自国の物品の返還を改めて試み、それは一定の成功を収めています。二国間協定の一環として、ロシアは戦後にソ連当局が横奪し、エルミタージュ美術館に渡した聖マリア教会の100枚以上の古代のステンドグラスをドイツに引き渡しました。さらに2006年、ロシア連邦は、ハンガリー最古の教育機関のひとつであるハンガリー改革派教会のシャロシュパタク改革派大学の有名な図書館をハンガリーに返還する法律を可決しました。オーストリアも文化財の返還に成功しました。2013年3月、ロシア連邦の国家院は、15世紀から18世紀にかけてのおよそ1000点のユニークな出版物を含む、かつてのオーストリア=ハンガリーのエステルハージ公爵家の図書館の書物コレクションをモスクワから返還することに関する条約を批准しました。同コレクションは1945年にソ連軍によってソ連に持ち帰られました。
聖マリア教会のステンドグラス 写真はオープンソースより
ホロコースト犠牲者への個人所有の文化財の返還
ホロコースト犠牲者への個人所有の文化財の返還に関する国際政策は成功を収めていいます。
例えば、オーストリア系のアメリカ人であるマリア・アルトマンがオーストリアを訴えた事件における米国最高裁の判決は、返還の成果を示すものと考えられています。この女性は、第二次世界大戦中にナチスが彼女の家族から没収したオーストリアの有名な画家グスタフ・クリムトの絵画5点の返還を求めました。その間、絵画はずっとウィーンにあるオーストリア国立博物館に保管されてました。2000年、マリア・アルトマンはロサンゼルスの連邦裁判所に申し立てをし、オーストリアに対して訴訟を起こしました。訴訟は最高裁にまでもつれ込みました。結局、当事者は仲裁手続きをオーストリアに移し、そこで2006年にアルトマンの絵画の返還が決定されました。第二次世界大戦後にも、同じようなケースがたくさんありました。盗取された物品の譲渡という事実に加え、ホロコースト犠牲者への文化財返還過程は、国際レベルでも重要な変化をもたらしました。1998年12月、ワシントン会議ではナチスによって盗まれた美術品の返還に関する原則が策定されました。この原則に拘束力はありませんでしたが、その実施は、第二次世界大戦中に失われた文化財の捜索と所有国への返還における国際協力を開始する重要な一歩となりました。
グスタフ・クリムトの絵とマリア・アルトマン 写真:Lawrence K. Ho/Los Angeles Times, Getty Images.
ポーランドの文化遺産の返還
ポーランドにも戦後の文化財返還の成功例があります。第二次世界大戦中、ポーランドはほぼ完全に略奪され、文化遺産の約70%を占める50万点以上の美術品が世界中の美術館で展示されることになりました。戦後数年間、ポーランドは国から持ち出された文化財のうち、わずか数点の文化財しか返還されませんでした。しかし、1965年、共産主義当局の決定により、このプロセスは停止されました。返還が再開されたのは、1991年のソ連崩壊後です。こうして過去30年間、ポーランドは占領政権によって盗難された数多くの歴史的・芸術的財産を取り戻すことに成功しました。
ポーランドが美術品の所有権を回復し、返還に成功した最も有名なケースのひとつが、レオナルド・ダ・ヴィンチが1489年から1490年頃にミラノで描いた「白貂を抱く貴婦人」のケースです。19世紀初頭、おそらくイタリア旅行中に、ポーランドのアダム・イエジィ・チャルトリスキが、美術愛好家であった母のイザベラ・チャルトリスキに贈るためにこの絵画を購入しました。当初、この絵画はポーランドの最初の美術館であるプワヴィのゴシック館に保管されていましたが、1830年にあったポーランド動乱後、チャルトリスキが同絵画をパリに移転しました。しばらくしたら、「白貂を抱く貴婦人」はポーランドに戻されましたが、第一次世界大戦中にドレスデン美術館に移されました。第二次世界大戦が勃発するまで、ポーランド人はこの絵画を隠していましたが、1939年9月にナチスに発見され、ベルリンのカイザー・フリードリヒ美術館(現在はボーデ美術館)に送られました。1945年5月、ポーランド系アメリカ人の調査団が、ナチスの幹部ハンス・フランクがドイツに逃亡しようとした際に、その所有物の中で「白貂を抱く貴婦人」を発見しました。ニュルンベルク裁判でこの逃亡者は死刑判決を受け、絵画はポーランドに譲渡されました。現在はクラクフのチャルトリスキ美術館で再び展示されています。
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「白貂を抱く貴婦人」 写真:Stanisław Rozpędzik/PAP。
ポーランドの文化財返還のもう一つの成功例ははアレクサンダー・ゲリムスキーが描いた「オレンジを持つユダヤ人」(1880-1881年)、あるいは「オレンジ商人」や「オレンジ女性」とも呼ばれる絵画です。第二次世界大戦が終わる2年前に、この絵画はワルシャワ国立博物館から消え去りました。長い間、この絵画は失われたものとしてされていました。しかし2000年代半ば、ハンブルク近郊のオークションハウスで思いがけず発見されました。ドイツの法律では、不法に持ち出された美術品を30年間所有し続けた場合、前の法的所有者は新しい所有者から合法的に文化財を取り上げることはできないと規定されているため、「オレンジを持つユダヤ人」を返還することは弁護士にとって困難な課題となりました。そのため、ドイツ北部のオークションハウスの所有者は、絵画の譲渡に対して金銭的補償を要求しました。ポーランド側とオークションハウスは法的合意に達し、それに応じて、補償金の一部を支払うことになりました。「オレンジを持つユダヤ人」は2011年にヴロツワフ国立博物館に移送されました。
アレクサンダー・ゲリムスキーが描いた「オレンジを持つユダヤ人」 画像出典:ウィキペディア
ロシアによるウクライナに対する本格的な軍事侵略が始まった後、ポーランドは侵略国の領土から文化財を返還するための戦いを強化しています。2022年9月、同国外務省はロシアに対し、第二次世界大戦中にソ連軍が盗取した美術品7点の返還を求める書簡を送りました。2022年9月末現在、ロシアはポーランドが提出した20件のポーランド美術品返還申請のうち、まだ1件も検討していません。
ポーランドは第二次世界大戦中にほとんどの動産文化財を失って以来、文化政策において国民遺産の返還を優先してきました。1992年以来、文化・国家遺産省はポーランド外務省の支援のもと、第二次世界大戦中に消失した動産文化遺産の全国電子登録簿を積極的に管理しています。そのデータは特別に作成されたウェブサイトで公開されます。収集された情報のすべては、国際公館、外国の博物館、オークションハウスなどに送られます。このように、情報の幅広い流通のおかげで、これまで失われていたポーランドの文化財のほとんどを特定し、返還のプロセスを開始することが可能になりました。
さらに、ポーランドは、盗難された文化遺産を含む自国の文化遺産に対する国民の意識を高めるために多大な努力を払っています。例えば、2013年、ポーランド政府は「失われた博物館」(The Lost Museum)というオンライン展覧会を立ち上げました。この展覧会では、盗まれた文化遺産や返還された文化遺産が紹介され、文化が国家建設や国民のアイデンティティの維持に果たす重要な役割について、国民的な議論を促しています。
成功例の一つとしてあげられるのは、ポーランドの対日文化外交です。占領時代にナチスによってポーランドの私的コレクションから盗取されたイタリア人画家アレッサンドロ・トゥルキの絵画「聖母子」が、2022年1月に東京のオークションで発見されました。この文化財は16世紀後半から17世紀初頭のもので、「白貂を抱く貴婦人」と同様、第二次世界大戦中に不法に輸出された最も重要な美術品の目録に含まれています。日本はヒトラーの連合国の一国であり、ナチスの同盟国となったため、加害国のひとつでした。そのため、日本はこの絵画のポーランド起源を認め、自主的にワルシャワに返還しました。
ナチスによって盗取された絵画がポーランドに返還 写真: ポーランド広報文化センター Instytut Polski w Tokio.
それと同時に、ポーランド文化省は大々的なプロモーションキャンペーンを展開し、盗まれた美術品について同国の有名人が語る50本の短編映画の撮影に参加しました。このように、当局は有名人の協力を得て、第二次世界大戦中における文化遺産の損失規模を観客に伝えようとしています。このキャンペーンには、文化省の代表、一流の美術史家、ポーランド最大の美術館の館長、人気俳優、スポーツ選手、音楽家、ジャーナリストなどが参加しました。その中、フェンシングのオリンピック銀メダリストであるラドスワフ・ザヴロトニャク、ジャーナリストのイーゴリ・ヤンケ、ミュージシャンで風刺作家のクシシュトフ・スキバが撮影に関わりました。
博物館の日(5月19日)にちなんだ世界的な取り組みの一環として、ポーランド人は行方不明の美術品のマルチメディア展示を開催しています。ポーランドの文化省は、盗まれた文化遺産の画像を広めることが返還への第一歩だと主張しています。ウクライナ国内だけでなく、世界中でウクライナの美術品の人気度が高まっている今、ウクライナも同様の取り組みを行うことができるでしょう。
ウクライナの文化財返還
第二次世界大戦中、ウクライナは敵軍による最も血なまぐさい戦闘の舞台となりました。ドイツが攻撃を宣言した後、ソヴィエト連邦は1941年6月27日に「人口の避難と貴重な財産の撤去と収容の手続きについて」という法令を発布し、博物館の収蔵品をソヴィエト連邦の奥深く、つまり当時のロシア・ソヴィエト共和国の後方に避難させることを規定しました。ウクライナにおけるナチスの突然且つ急速な進撃により、9つの州から文化財を撤去することは不可能となり、ドイツ軍が展示品を盗み出しました。ナチスによる「文化的」略奪の主な理由のひとつは、ヒトラーが過去住んでいたオーストリアのリンツに自分の博物館を作りたがっていたことでした。その博物館は世界最大のもので、世界中の最も重要な美術品を収蔵するはずでした。さらに、ドイツ軍の計画によれば、ウクライナ人は自分たちの過去を研究する機会を失い、その結果、「アーリア人種」の優位性を認識することを加速させるはずでした。ナチスの理論家の一人であるアルフレート・ローゼンベルクは、民族のモニュメントを破壊することは、次の世代にはその民族が国民として存在しなくなるために必要であると考えていました。
それに劣らず破壊的で恣意的だったのは、ソ連軍の芸術的財産に対する扱いでした。文化財は射撃地点や陣地建築材として使われたり、単に盗まれたりしていました。さらに、ソ連軍は「焦土化」という戦術を用いていました。これは、避難できないもののすべてを破壊し、敵軍が使用できないようにするという戦術です。その結果、ウクライナは何千もの貴重な文化遺産を失うことになりました。
第二次世界大戦終結後、ナチスがソ連から持ち去った文化財のほとんどすべてが、賠償金としてモスクワに譲渡されました。その文化遺産はいまだにウクライナに返還されていません。なぜなら、1998年に制定された法律では、盗まれた文化財はかつてソ連の一部であった国々に返還されることになっているものの、ロシアがすべての返還財産を横領してしまったからです。
ウクライナ国立科学アカデミー・ウクライナ歴史研究所の主要研究者であるセルヒー・コットは、ソ連に返還された貴重品を数えた場合、最も文化的に重要なものの約74%がウクライナの工芸品であったと指摘しています。今日に至るまで、1941年から1945年にかけて持ち出された展示品の数に関する統一された統計はありません。1987年に発表されたウクライナ文化省のデータによると、ウクライナは第二次世界大戦中に約13万点の美術品を失ったとのことです。しかし、ウクライナの文化遺産に対する真の被害は定かではないため、この数字は仮のもので、もっと多い可能性もあります。
ソ連における文化財の避難 写真はオープンソースより
独立後、ウクライナは長い間、文化遺産返還過程における主体性を奪われていました。失われた遺産の返還に関する交渉は行われず、これに関わっていたのはロシア連邦だけでした。状況が変わり始めたのは、ウクライナがイニシアチブを取り、ドイツの有名な詩人であるヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテにまつわる30点の物品を自発的にドイツに引き渡したときです。ドイツとウクライナの協力関係は徐々に改善されていきました。しかし、ウクライナの文化財がドイツから返還されたのは、ほとんどが物品の個人的所有者によるものでした。その一方、公的な返還の状況はやや複雑でした。ウクライナの文化財の返還の数少ないケースを除いて、ドイツは「ドイツは第二次世界大戦後、ウクライナの文化財を旧ソ連に返還し、国際的な法的義務を果たした」と考えています。
ボフダン・ハネンコおよびヴァルヴァラ・ハネンコ記念国立美術館のオレーナ・ジウコヴァ研究副部長は、ウクライナはヨーロッパのどの国よりも多くの美術品を失ってきたと指摘しています。文化協力と交流の枠組みの中で、第二次世界大戦の結果、約2万7000点の作品を失ったハネンコ記念美術館は、返還過程の一環として、1955年から2004年まで8万9601点の美術品を欧州連合諸国に返還しました。そして、最も多くの美術品が返還されたのはドイツです。その数は8万9459点にも及んでいます。では、同美術館は、ドイツと欧州連合によって何点の美術品を返還されたでしょうか?答えはゼロです。オレーナ・ジウコヴァは次のようにコメントしています。
-1998年、ハネンコ記念美術館の研修者たちは、第二次世界大戦で失われた絵画の英語版カタログを出版し、その後、ドイツのドイツ文化財損失センター(Deutsche Zentrum Kulturgutverluste)のウェブサイトに掲載しました。私たちは現在も失われた文化財に関する新しい情報を見つけながら、この電子版カタログを更新しています。カタログに掲載されている474点の絵画は、いずれも返還の対象であり、したがって、侵略国は同様の価値を持つ文化財を被害国に譲渡しなければならないという規則の対象となっています。「賠償金を支払う」というもうひとつの法的規範は動産文化財に対しては不適切であると、私は考えています。文化財が高価だからではなく、お金では回復できないからです。文化的トラウマを部分的に補うことができるのは、他の文化財だけです。それだけが博物館や私たちの心に残された空虚を塞ぐことができます。
ハネンコ美術館の内部、20世紀初頭 同美術館のアーカイブの写真
ウクライナの物品に対する盗取は、ロシアによるウクライナに対する戦争の中でも続いています。歴史的に見ても、ロシアが自発的に盗難品を返還することはないでしょう。この問題は、勝利後に最後通牒的な条件で合意が成立するか、国際訴訟を通じてしか解決できないと考えられています。しかし、ウクライナが独立を回復した後、盗まれた文化財を返還した成功例もあります。
2010
ロシアが盗取した文化財のウクライナへの返還を決定した数少ない成功例のひとつは、5~6世紀の初期キリスト教の墓石2基をセヴァストーポリの国立保護区「ヘルソネース・タウリーシキー」に譲り渡したことです。これらは1964年、ソ連の支配下で一時保管のために現代のサンクトペテルブルクに移されました。キリスト教の墓石は、レニングラード宗教・無神論歴史博物館に展示された展示品12点の内の最後のものでした。
セヴァストーポリ、ヘルソネース遺跡 写真:クリム・レアーリー / Крим Реалії(クリミアの現実)
2011
イースターの前、ドイツはウクライナに、第二次世界大戦中にナチスによって奪われた古代のイースターエッグ(ピーサンカ)のユニークなコレクションを返還しました。ゲヒシュタットのドイツ地方博物館に保管されていた文化財は、当時のハンス・ユルゲン・ハイムゼート駐ウクライナドイツ大使によって直接手渡されました。ピーサンカの返還は、1993年に始まった両国間の返還過程を継続するものでした。この過程の一環として、ウクライナは数百点の文化財を回収することができました。
古代のイースターエッグのコレクション 写真:ラディオ・スヴォボーダ / Радіо Свобода
2015
同年、オランダ画家のコルネリス・ファン・プーレンブルクの絵画「アルカディアンの風景」が前述のハネンコ美術館に返還されました。 この文化財は、ウクライナの芸術文化支援者であったボフダンとヴァルヴァラ・ハネンコ夫妻のコレクションの一部であり、 ドイツ占領下のキーウから持ち出されました。 2011年、ヨーロッパのオークションのひとつが、この絵画の売却に関する情報をウェブサイトで公開しました。同絵画の出所は1年後に確定されました。ハネンコ美術館は慈善家のオレクサンドル・フェルドマンに協力してもらい、彼はすぐにこの絵画を購入し、厳粛に美術館に引き渡しました。
コルネリス・ファン・プーレンブルクの「アルカディアンの風景」 写真:ハネンコ美術館
2016
エストニアは、2016年冬にエストニアとロシアの国境にあるルハマア検問所でベラルーシ国民から没収された、違法に輸出された中世のバイキングの剣をウクライナに返還しました。調査の結果、その物品は約1000年前のものであることが判明しました。当初、エストニアはこの文化財をロシアに譲渡する予定でした。しかし、その後、エストニアはこの文化財の起源がウクライナであることを確定しました。
バイキングの剣
2018
ハルキウの著名な画家であり、風景画の巨匠であるセルヒー・ヴァシリキウシキーの絵画「家のエチュード」の返還は、いまだに謎に包まれています。他の多くの絵画と同様、この文化財も第二次世界大戦中にナチスによって持ち出されました。75年以上もの間、この絵画は永遠に失われたと考えられていました。しかし、2016年末、ハルキウ美術館にベルリン刑事警察長官から「家のエチュード」に似た絵画がドイツのオークションで匿名の株主によって発見されたということを知らせる手紙が届きました。ドイツとウクライナの委員会は、この絵画がウクライナのものであることを証明するため、1年半に及ぶ確認作業を行っていました。結局、絵画を返還する法的根拠は見つかりませんでしたが、その絵画は匿名の男性によって買い取られ、ハルキウに譲り渡しました。その人は身元を開示しませんでした。その人はヴァシリキウシキーの作品に興味があり、美術館を訪れると約束しただけでした。
セルヒー・ヴァシリキウシキーの絵画「家のエチュード」
2020
2020年1月、ウクライナはドイツ占領時代に不法に輸出されたミハイル・パニンの絵画「イワン雷帝のオプリーチニナ*前の密かな出発」を返還することに成功しました。この文化財は、1946年にアメリカに移住した元スイス兵の所有物でした。1986年、同兵士が亡くなり、絵が保管されていたコネチカット州のリッチフィールドにあった個人宅はアメリカ人夫婦が購入しました。2017年、夫妻はウクライナの絵画をオークションに出品しました。それに対して、ドニプロ美術館は即座に、盗まれた文化財の返還を要求しました。アメリカは絵画を没収し、後にウクライナに返還しました。
オプリーチニナ
1565年から1572年にかけてロシアでイヴァン雷帝が実施した国家政策。この政策には、公開処刑や土地・財産の没収を含む大規模な弾圧が含まれていました。また、オプリーチニキと呼ばれるロシア史で初とされる政治警察が出現しました。もうひとつの成功事例は、ウクライナの美術史家で収集家のヴァシリ・シチャヴィンシキーが所蔵していたピエール・グードローの「恋人たち(放蕩息子と娼婦)」がハネンコ美術館に返還されたことです。美術館のチームがニューヨークのDoyleオークションでこの絵画の売却を阻止することに成功してから7年後、アメリカは裁判所の命令に従い、2020年に作品を無償で返還しました。
ピエール・グードローの「恋人たち(放蕩息子と娼婦)」 写真:ハネンコ美術館
2022
9月、アメリカ合衆国税関・国境警備局は、ロシア人がアメリカに密輸しようとしていた貴重品を押収しました。その中には、紀元前6世紀から5世紀のスキタイ文化のアキナケス(剣)、紀元前3千年紀の磨かれた火打石の斧、キーウ・ルーシ時代のクマン民族のサーベル、その他多くのウクライナの貴重な文化財がありました。これらは2023年3月にウクライナに返還されました。
スキタイ文化のアキナケス(剣) 写真はオープンソースより
2023
ロシアがクリミア半島を占領する前、キーウにあるウクライナ歴史宝物博物館はクリミアの4つの博物館とともに「クリミア:黒海の黄金と秘密」展を開催しました。同展覧会は後に「スキタイの黄金」と呼ばれ、人気を博しました。サルマタイ、フン族、古代ギリシア、ゴート時代の600点以上の美術品や古美術品が展示されたこの展覧会は、2013年7月から2014年1月までドイツのボン市で開催されました。その後、アムステルダムのアラード・ピアソン考古学博物館でも開催されることとなり、2014年5月末まで続く予定でした。しかし、ロシアの侵略によって事態は急変し、クリミアの美術品はオランダからウクライナに戻ることはありませんでした。2021年、アムステルダム控訴裁判所は、クリミアからキーウへの物品の譲渡を命じる判決を下しました。それに対して、本格的な侵略の前に占領されたクリミアの博物館を代表してロシアが訴訟しましたが、全面戦争中にオランダの裁判で支持を得ることができませんでした。
約9年にわたる訴訟の末、2023年6月9日、オランダの最高裁判所はついにスキタイの黄金をウクライナの文化遺産として認め、その結果、物品はウクライナに返還されることになりました。
アムステルダムで開催されたスキタイの黄金展の展示品のひとつ、紀元前4世紀のスキタイの黄金の兜。ウクライナに返還された。 写真:ウクライナ国立歴史博物館の宝物庫。
ウクライナが正義を取り戻すにはまだ長い道のりがありますが、国際的な返還の経験とパートナー国の支援があれば、文化遺産の合法的な返還は可能です。