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アンバサダーというプロジェクトでは、ウクライナの各著名人に、彼らにとってのウクライナの街について語ってもらう。
第十話では、歌手でバンドグループ・オヌーカのリーダーであるナータ・ジジチェンコが、壮大でいろんな顔をもつウクライナの首都・キーウを案内してくれる。
このプロジェクトの設立者であるボフダン・ロフヴィネンコは、ナータと共にこのモダンな街を作り上げている人達に会いに行く。

どのような幼少時代をキーウで過ごしたか?
子供の頃をヴォスクレセンカ地区で過ごした(キーウのドニプロ川の反対側=左側の地区)そこは、昔とあまり変わってないので、子供の頃に戻れる気がして、今でもそこが気に入っている。
子供の頃、お母さんと放課後に落ち葉を集めて、それをアルバムに貼ったりするのが好きだった。これは子供の心の温かい思い出の一つである。

ソピールカ(フルートに似たウクライナの民族楽器)が、あなたの最初の楽器だったのか?
最初の楽器はピアノだったが、その時は、ピアノの鍵盤にただ触れてみただけだった。母はピアニストで、私はピアノを教えてほしいと頼んでいたが、その度に「あなたにまだ早い」と母に言われていた。そして最初の頃はどの鍵盤を弾くか覚えるために、鍵盤にペンでマークをしてもらった。
そのあとはソピールカだった。なぜなら両手でピアノを弾くより、6つの穴しかないソピールカを学ぶ方が簡単だからだ。

ナータ・ジジチェンコは 音楽一家で育ち、民族楽器を作っていたオレクサンドル・シリョンチックの孫である。
そしてまさにこのナータの祖父が、彼女にソピールカの演奏を教え、彼女を音楽の道へ誘ったのである。
2013年の夏には、それがオヌーカという、エレクトロニックに民族的要素を織り交ぜた音楽プロジェクトへと結実する。
ナータ・ジジチェンコと彼女のパートナーであり、「TheManeken」のプロデューサー権リーダーのエウヘン・フィラトフはこのプロジェクトの共同創立者となった。

エウヘンと初めて会った時のことを覚えているか?
コンサートで参加者のアーティストとしてすれ違ったりしてお互いのことは知っていたが、きちんと知り合って交流を始めたのは2008年だった。
私はその時にスクーターに夢中だったので、キーウ中を走り回っていた。ある日、エウヘンを「フリブ」(キーウで2007年4月から2013年1月まで営業していたクラブ)というナイトクラブまで送ってあげようとしたのだが、その時思わずスピードを出し過ぎてしまった。それが所謂、初めて二人で『出かけた』時だったが、事故に会わなくて本当に良かった。
あの時、二人でバイクに乗った選択は間違ってなかったと思うし、今現在もあの時と同じようなスピードで駆け抜けてる感じがする。

キーウで、あなたにとって特別な場所はどこか?
私は(ドニプロ川近くの)オボローニ地区にすみ、そのあとはしばらくポディールに住んでいた。
ポディールはジェーニャと一緒に長く過ごした場所だったので、心に残った。そこは、散歩もできてナイトライフも充実している。
今は、ドニプロ川を渡って反対側に住んでいるが、今でもポディールにきて犬の散歩をしたり、こっちの空気を吸って刺激を受けるのが好きだ。
ここでは特に、キーウの歴史的な部分と同時に居心地良さが見えてくる。この、なかなか同時に両立できないものが、私にとってのキーウの特徴である。

ホロシイフスキー公園の側にあるウクライナの国立エキスポセンター(国立展示場)が、1958年に設立された。当時は、国内産業の偉業を展示する場だった。
ソ連崩壊後にこの国立展示場は閉鎖となったが、この展示場の名称には何回か変更があった。
2015年に新しい経営者がついたが、彼は就任してわずか1年で、教育センター・アートレシデンス・キッズゾーン・展示広場・ビジネスキャンパス・森林公園などの建設を盛り込んだ、今後40年にわたる展示場再生のための計画を生み出した。
全てのプロジェクトへの投資は民間投資から成り立っていて、将来的に彼らがこのプロジェクトの運営者になる。そして国立展示場で得られた全ての利益が展示場のインフラ改善のため、また森林公園ゾーンのメンテナンスのために使われる。
国立展示場の社長のエウヘン・ムシキンは、その間に実行される展示場再生プログラムが、ウクライナ人の価値観にも影響すると思っている。

「この場所はとてもパワーがある場所だ。歴史的に人への影響が大きかったが、それは人工的に作られたものだった。今回の計画では、最初のパビリオンは『ウクライナ科学博物館』になる予定だ。世界ではそのような博物館が多いが、一方でウクライナにもキーウにもそのような博物館は一つもない。我々は、それこそ国立展示場に、そのようなものを造るべきだと考えている。」

国立展示場の子供の頃の思い出があるか?
子供の頃の思い出には、ここについてあまりいい思い出がなく、ここが怖くて、汚くて捨てられた場所という印象だった。家からとても遠くて、両親と稀にしかここに来なかった。数回しか来てない。
国立展示場再生のプロジェクトが始まった時からここを再発見した。最近は、このプロジェクトへの参加に積極的な人が増えている。特に「Atlas Weekend(キーウで2015年から毎年に行われている音楽フェス)や、「クラージュ・バザール(チャリティーフリーマーケット)は、ここを拠点に行われており、そして今度は「ゴミのないウクライナ」というゴミの分別文化を普及させているNGOが、ここを中心に活動予定である。

国立展示場の印象は?
いまではあまり見られないソ連時代の建築スタイルが残っているという点で、この展示場が好きだ。公園の緑地整備にまでソ連時代のスタイルが残っており、このようなものは他では見られない。それらが、街の中心からそう遠くなく一ヵ所に集まっている。
この計画はこの展示場の命を紡ぎ、支え得るものだと私は思う。

デコミュニゼーション(脱共産主義)についてどう思うか?
例えば、全ての通りの名称を、当時偉大だっただけで5年後には誰も覚えていないような人物の名前に変える、というのは少しおかしいと思う。
一方で、いたるところに建てられていたレーニン像やスターリン像を取り壊すのは、至って普通のことだと思う。その内の一つか二つを、悪の象徴の記憶として残しておくのもありかもしれない。
やはり、歴史は消せないものであると思う。同じ過ちを繰り返さないために忘れないことが大切だが、何事もやりすぎはよくないので、行き過ぎは控えるべきだと思う。

2014年の時から「クラージュ・バザール」のフリーマーケットではチャリティーイベントを作り始めた。ここでは古着以外に、ウクライナで作られたデザイナー商品や、海外製のものが販売されている。最初はアート工場の「プラトフォールマ」で開催されていたが、その後、国立展示場に移った。

「クラージュ・バザール」の創立者であるオレーナ・フドコーワによると、そのプロジェクトがチャリティーとエンターテイメントが両立出来ることを証明している。「我々の世代にとって国立展示場が、旧ソ連の遺産に満ちた失われた場所だった。ダサくて、魅力がない場所だった。そして我々がここに移り始めてから、ここが再生し、エンターテイメントが戻った。
毎月行われるチャリティーフリーマーケットである『クラージュ・バザール』には、平均で15,000人くらいもの多くの人が訪れる。また、いつも多くのアーティストが出演している。」

「クラージュ・バザール」は、成功したプロジェクトの一つか?
とても刺激を与えたプロジェクトであると思う。そのプロジェクトはウクライナではチャリティーに対する考え方を変え、チャリティーは、ファッションやエンターテイメント、音楽と両立できることを証明した。
自分の環境を変えられる人で、世の中を変えたいという人がいるのは素晴らしいことだと思う。他の人のために生きるということが人間の素晴らしさのなかで最上のものであると思う。これを引っ張っていく人がいることが嬉しい。

2015年設立の「ゴミのないウクライナ」というNGOは、環境汚染への影響を少なくするため、ゴミの分別について普及させている。地下鉄デミイフスカ駅近くに、彼らはゴミ処理場第一号をオープンした。ここでは、日常生活のゴミの分別についてや、正しいリサイクル方法について、様々なイベントを行っている。

「ゴミのないウクライナ」の創立者であるエウヘニア・アラトフスカは、処理場をもう一ヵ所、国立展示場の敷地でオープンさせることを考えている。そして、ゴミ処理に対して責任を持ち、意識して分別を行うウクライナ人が増え、同様のプロジェクトに関心があることを喜んでいる。
「ここはセルフサービスステーションである。うちのコンサルタントはどこに何を入れるか説明を行う一方、ここでのルールによって、入れるものは全て清潔且つコンパクトでなければならない。
ここに来るまでと来た後では、まったく考え方が変わるような場所なのだ。人々はゴミが綺麗に見えるなんて想像できない。普通のゴミは汚くて臭いものだが、ここに来る人達はみんなゴミ処理について意識しているので、ここでは全く違う。なので、処理場に持ってこられたゴミを見た時に、それらは本当に『資源』に見える。」

彼女のプロジェクトである「ゴミのないウクライナ」を支援しているか?
エウヘニアと私とは共通しているものが多くて、私は彼女がやっていることに感動している。彼女たちはゴミの分別を普及させようと奮闘しているが、そのための国レベルでのきちんとしたシステムがないので、なかなか大変なことだ。
そのようなゴミ処理場がキーウにはいくつかあって、他の大きな街にも、もしかしたらあるかもしれない。

2018年の春に、オヌーカがゴミ廃棄場で撮影された「Strum」という歌のミュージックビデオを発表した。そのように彼女は、家庭ゴミによる環境汚染について、喚起を促しているのだ。このビデオクリップを基に、ナータ・ジジチェンコは、環境問題に対して率先して取り組むことを表明した。

「ゴミのないウクライナ」に対してどのような支援を行っていた?
私達は「Ecostrum」という環境問題への取り組みを始めた。うちのビデオをみて、ライクし、シェアすることで発生するユーチューブからの収益が「No waste」というゴミ処理場へと寄付されるものだ。
ジェーニャ(エウヘニア・アラトフスカ)も我々をサポートしてくれた。

ゴミ分別に対しての意識が変わってきていると思うか?
今まさに世代が変化している時だと思う。環境問題に対して意識の高い人がとても多いと思う。ある人は自宅のバルコニーでコンポストを作っている。つまり、驚くくらい分別に気を使っている人がいるということだ。

民族楽器の中には、時代とともに去っていくものがある。制作したり修復したりする職人がいなかったら、その楽器がなくなる可能性がある。ブハイという楽器がそのうちの一つである。オヌーカが2017年にユーロビションの歌コンテストに出演してからようやく、その楽器について積極的に取り上げられるようになった。そして音色や形状において特殊なその楽器が、人々の注目を集めた。この楽器の詳細についてはこちら

自身の音楽による世の中の変化について、気付いているか?
それが一つの目的だった。
誰でも知っているソピールカやバンドゥーラと違って、ブハイは特に珍しい楽器である。多くの若者はその楽器自体についてすら全く知らないので、私個人としては、ウクライナや外国でウクライナの楽器を披露することが目的である。

あなたが初めてブハイを知ったのはいつか?
子供の頃に、祖父のアトリエで見た時だった。樽から馬の尻尾が出ているようなものが楽器だということに、ショックを受けたことを覚えている。

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それ以降で、ブハイが演奏されているところを見たか?
演奏されているのを発見したのは、オーケストラの演奏でだった。その時、ブハイが他の民族楽器と一緒に演奏されていたが、少ししか使用されていなかった。私はそのパートが好きではなかった。
その音色を音楽に使いたいと思った。それで「Vidlik」という歌でベースとしてブハイを使った。もちろん、それはサンプルとしてのものだが、それでも楽器自体は生で演奏されていた。実際、オーケストラと一緒にパフォーマンスする際には、ブハイは生で演奏されている。

あなたの祖父はとても忠実に楽器を作っていた。彼の仕事に感心していたか?
もちろん感心していたし、祖父は私にとって最早伝説のような人だ。私が思うに、そんなような人はもういないし、もしくはまだ同じような人に会ったことがない。
私にはチェルニーヒウ楽器工場を復活させるという夢があるが、そのために大規模な投資が必要だ。
アイデアがある時、私はそのために時間を多く使うのだが、一方でそのアイデアが自分自身によって実現されないにしても、何らかの形でそれの実現を促すことが出来る。
楽器工場とは、魔法が生きる場所だと私は思う。チェルニーヒウ楽器工場のスケールを考えると、工場が変わり果ててしまったことが本当に悲しい。

2019年末には、在中国ウクライナ大使館のサポートを得て、オヌーカが中国ツアーを開催した。単独コンサートを2つ公演し、広州で開かれた第12回国際青年芸術祭に参加した。
そこでは、中国の観衆に対して、ユニークなウクライナの民族楽器とエレクトロニックとを融合させた音楽を披露した。

中国ツアーの印象はどうだったか?
変わった経験だった。コンサートを3公演行ったが、コンサートホールも500人~1,800人は入るような大きなところだった。そしていずれの公演も満席だった!
ウクライナ人は15-20%くらいで、あとは皆中国の観衆だった。つまり、私達のコンサートは、中国の観衆に向けたものだった。

面白い思い出はあったか?
一曲のみ披露した音楽祭に参加したが、そこは様々な国から参加者が来ており、私達はそんな中参加していた。
ジョージアの舞踏団や、フォノグラムと踊る中国の舞踏団など、クラシックな音楽団も参加しており、そんな中私達は、とても場違いなエレクトロニックトラックを披露したので、それがとても奇妙だった。
だが、観衆や舞台裏にいた参加者には、とても評判が良かった。

ソーシャルメディアを積極的に使うか?
携帯から全てのソーシャルメディアを消していて、パソコンには一つだけ残っている。稀に何かの数字をチェックしにいくが、もうそのような柵からは自分を解放した。
もしかしたらおばさんみたいな考えかもしれないが、子供の頃はソーシャルメディアや携帯がなかったので、幸せだったと思う。

だからソーシャルメディアを使用していないのか?
その通り。だがインスタグラムはやっている。最初はそれも消していたが、チームとの連絡手段がないと分かってまた使うようになった。
他のは、特にフェイスブックだが、全部消した。

それは最近のことか?
去年の12月(2018年の12月)にパソコンと携帯から全部消した。
そしてしばらくすると、画面に向かって無意味なスクロールをすることもなくなったので、時間が増えたなと感じた。
また、ずっとやりたかったが無意味なスクロールのせいで出来ていなかった、ツアー移動の間の読書や、外国語での映画鑑賞を前よりも多くし始めた。

スクロール

電子機器の画面で内容をざっと見ること。

2018年夏に、キーウのレイタルスカ通りで、「Block Party」という地元の企業が主催となったストリートフェスティバルの第一回目が開催された。
このイベントでは、最寄りの通りの全ての企業が参加しており、イベント参加者は、エンターテイメントの場もしくは憩いの場として楽しむことが出来る。
本イベントの収益の一部は、通りに設置されるゴミ箱の購入や建物の外壁修繕等、通りの環境改善に充てられる。

このイベントを考案したアンドリー・ティタレンコは、祝日だけでなく、他の日にも普通にレイタルスカ通りに憩いの場として訪れることが出来るようにしたいのだ。
「旧ソ連時代、ウクライナでは、憩いの場として街の道で遊んだり、休んだりする習慣が無くなってしまった。買い物やコーヒを飲みに出かけに来る商店街は、大規模なショッピングセンターに取って代わられた。今どこかで遊びに行こうと思うと、みんな大きな鉄筋コンクリートのビルに出かけに行く。我々は、この通りは気軽に出かけられて、ウクライナのものを買える、特別な場所になると考えた。」

キーウはどんどん現代化していっていることについてどう思っているか?
モダン化の中にレトロな雰囲気が残っていているような気がするので、レイタルスカ通りが大好きだ。また、「Block Party」はキーウで最高の街開発のイベントで、その一部であることが嬉しい。

2018年12月にレイタルスカ通りのある一角に「The Naked Room」という現代アートのギャラリーがオープンした。
創立者の一人である映画監督のマルク・ウィルキンスは、ウクライナ文化を支えるために、ベルリンからキーウにやって来た。
このギャラリーでは、若手の画家の作品が多く展示されており、それをコーヒやワインを飲みながらそれを楽しむことが出来る。また、そこでは本のコーナーがあって、現代アートや建築、写真、デザイン関係の本を購入することができる。

「The Naked Room」の創立者であるマルク・ウィルキンスについて、以前から知っていたか?
マルクとは一緒に仕事した時に知り合った(携帯電話会社のCMにナータは出演、ウィルキンスは当時ディレクター。)
結局マルクは、2013年から2014年でのキーウの出来事(ユーロマイダン革命)に感銘を受け、ベルリンでの家を手放してキーウに移住し、レイタルスカ通りの解放のために取り組み始めた。そこで再開発のための建設反対デモまで起こし、「The Naked Room」というギャラリーもオープンした。

どうしてマルク・ウィルキンスはウクライナに残り、ここでギャラリーをオープンしたと思うか?

彼はこっちでの現代アートやギャラリーの事情を見て、所謂、結構気取りすましたものであることに気付いただろう。絵の値段が高価で、創造力豊かな若年層との関わりが一切ないこと等がその例である。
それで彼は、図書スペース、憩いの場、バーなどが一緒になって、さらに一般の人もアート作品を購入できるようなモダンなギャラリーを制作することを決めた。

子供の頃に聞いていた音楽はどんなものだったか?
「テリトリア・アー」(ウクライナで毎日放送されているミュージックチャート番組)や、その当時のあらゆる番組を見ていたが、その当時は、録音や他のトラックの音源に合わせて口パクで歌っていたアーティストがたくさんいた。90年代初めから2000年までは、そのせいで文化のレベルが大きく落ちたような気がする。同時期に、謂わば寄せ集めのアーティストで構成された音楽フェスが、突貫工事的に催された。
今でもあまり好きじゃない音楽番組が、まだ存在している。そしてそのような音楽は、たとえそのアーティストが口パクで歌っていなかったとしても、それ自体が人々の意識をダメにさせている。

ファネーラ(スラング)
フォノグラムの一種。それを用いて、パフォーマンスの際、歌い手が事前に録音した音源に合わせて口パクで歌う。

今のウクライナの音楽事情をどう思う?
まさに今、そのような堕落した状況から頑張って出て行こうとしていると私は思う。ユーロマイダン革命後(ウクライナで2013年11月21日から2014年2月までに起こった社会的・政治的な出来事)その動きが始まって、多くのユニークでパワフルなアーティストが出てきた。

音楽プロジェクトでどんなものが気にいっているか?
「ダーハ・ブラハ」というバンドは、あらゆる面で気に入っているものの一つだ。ユニークで、世界的に有名で、生演奏が素晴らしい。
何度でもいうが、それはウクライナで発明された所謂『音楽の自転車』であると私は思う。

ウクライナの著名な歌手であるヤーナ・シェマエワ(現在はJerry Heil『ジェリー・ヘイル』)は、当初ウクライナや外国のヒットソングを自ら歌いなおしたビデオを作成していた。
サウンド・プロデューサーを探している最中、エウヘン・フィラトフ/ナータ・ジジチェンコ夫妻が設立した「Vidlik Records」という収録スタジオに連絡した。
二人はヤーナにポテンシャルを見出し、2017年10月にジェリー・ヘイルの名で、4曲収録された「デ・ミイ・ディム」というデビューミニアルバムを発表した。

ジェリー・ヘイルとは、あなたの発見か?
彼女はそれまでブロガーで、アカペラで歌を歌い直していた。それは世界的に皆やっていることだが、彼女は自力で撮影もし編集もしていた。まさに彼女は、セルフ・メイド女子である(英語で、自分を自分で作った人という意。)
自力で全部まかなってこのような結果を達成できるのは、大きな成果であると思う。また、歌詞や演出、その裏にある考え方など、全てが印象を与えている。

今のジェリー・ヘイルのイメージについてどう思うか?
彼女が今取り組んでいるジャンルは、あまり好きではない。彼女はもっともっとできると思う。
彼女のヒット曲である「オフラーナ・オトメーナ」は楽しくて素晴らしいが、「その次、またその次」の歌がどういうものになるか方向付けてしまう。
その後、「ヴィールナ・カーサ」と「トゥヴェールカティ」という曲を発表したが、そのようなメッセージ性が深い歌ほど、リスナーに響きづらくなってしまっていた。
彼女はクールで、メッセージ性の深い、ユニークな歌を作っているので、本当の自分を見つけ出してリスナーにそれを届けてほしいと思っている。

2012年にウクライナの作曲家であるヴォロディーミル・サーヴィンは、プリピャチ市に赴き、チョルノービリ原発事故後に捨てられた楽器の音を録音してきた。オーディオ資料を探し収集するために、7年間に渡って彼は25回もチョルノービリに訪れた。
20個もの楽器の音を録音し、ヴォロディーミルはその資料を「Pripyat Pianos」というバーチャルな音楽博物館を作った。
「町がなくなって、人々はそこに住んでいないが、たくさんのピアノが残っている。誰にも使われなくなったものだが、楽器にとってはそれが『死ぬ』ことと同意である。
2012年に初めてそれを弾いてからまだ全然弾けると分かり、それからサンプル収録することを決めた。
現在、20台のピアノから収録したサンプルがあり、世界のどこの作曲家でもそれで好きな音楽を演奏することが出来る。そうやってそこに残されたピアノは、第二の人生を送ることが出来る。」

サンプル

音楽制作のために用いられる音源の一部。

チョルノービリと関係したあなたのストーリーは、どのようなものか?
まず、父親はチョルノービリ原発事故の処理担当の一人だったので、子供の頃からチョルノービリのことについて知っていた。
そして小学校の時からチョルノービリに関して興味を持つようになり、新聞の切り取り、本、父親との会話の記録等を通して、その後はもっと深い興味を持つようになった。
大学(キーウ国立文化芸術大学)では、私は「ポリッシャーの民族地域におけるチョルノービリ事故の影響について」という卒論を書き上げた。そこではチョルノービリへ自ら移住してきた人や、チョルノービリから避難した人達の音楽について少し研究した。
民族誌学的には、それは問題提起されているテーマであるが、一度そのテーマにハマって興味を持っている人なら誰でも、そのテーマからなかなか抜け出せないものなのだ。

支援について

このプロジェクトは、ウクライナ・インスティテュートのサポートにより実現されました。

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者,

プレゼンター:

ボフダン・ロフヴィネンコ

監督,

プロデューサー:

カリーナ・ピリューヒナ

編集:

ソフィヤ・バジコ

ナタリヤ・ポネディロク

フォトグラファー,

写真編集:

オレクサンドル・ホメンコ

フォトグラファー:

イリーナ・フロモツィカ

ムービーカメラマン:

ミハイロ・シェーレスト

オレフ・ソロフーブ

オレクサンドル・ザボロトニー

音響:

パウロ・パシュコー

トランスクライバー:

ハリーナ・レジニコヴァ

ポリーナ・ボンダルーク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

翻訳:

オリガ・ホメンコ

翻訳編集:

藤田 勝利

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