他国におけるウクライナの平和維持活動および軍事・人道的活動

Share this...
Facebook
Twitter

武力攻撃・自然災害・伝染病・経済危機など、ほぼすべての国で大規模な問題に直面する可能性があります。しかし、自国民の幸福を考えるだけでなく、多くの国がグローバルな問題から目をそらしているわけではありません。ウクライナが独立を回復してからロシアの本格的な侵略を受けるまで、国際人道ミッションや平和維持活動にいかに積極的に参加してきたかをお伝えします。

2022年12月時点で、ウクライナは81の国際機関に加盟しており、政治・環境・人道・経済・司法など、世界的に重要な問題に他国と対等な立場で取り組んでいます。また、独立回復後、ウクライナ軍の約45,000人の軍人が少なくとも27の国際平和維持活動や安全保障活動に参加しています。

ウクライナが国際舞台での地位を強化する一方で、ロシアはウクライナの主権が作り物でしかないという偽情報を長い間にわたって意図的に流布してきました。ウクライナが破綻国家である兆候とロシアが考えるロシア人による数々の非難や、2021年12月のプーチンの「ウクライナはレーニンが発明した」という発言を見ればそれは明らかです。本格的な侵略が始まり、ウクライナ軍が予想に反して数々の攻撃を撃退し、その後、西側の兵器を見事に使いこなし始めると、ロシアのプロパガンダ扇動者たちは、次のような言説を唱え始めました:ウクライナ人は常に軍事援助や財政援助を求めることしか知らず、その結果、相手国の経済を弱体化させている。

ロシアのいわゆるアナリストとされているイヴァン・リザンは、ウクライナは戦闘機と長距離ミサイル(2023年9月に受領開始)を除いて、要求したものはすべて受け取っているものの、目立った成果を示していないと主張しています。そのためリザンが言うように、ウクライナが戦争を終わらせることができないことを考慮して、この「新興企業」への投資を西側諸国は徐々に拒否しています。彼のいわゆる偽情報拡散の僚友であるロシアのペスコフ報道官は、ゼレンシキー大統領は米国と欧州を「退屈」させており、より多くの援助を得ようとする彼の試みは貪欲であると言います。その理由として、「私(ゼレンシキー:編)のために用意された武器が、イスラエル(2023年10月7日にハマスによって攻撃された)に譲渡されることになるから」と述べています。

ロシアのいわゆるアナリストとされているイヴァン・リザン オープンソースからの写真

似たようなプロパガンダを英語で流しているのはTASS通信社で、ロシアのミサイル攻撃で当時の人口のほぼ半数に当たる約50人が死亡したスロボダ地方のフロザ村の悲劇を情報操作しています。ロシアのメディアは、外国のパートナーを説得して支援を提供してもらうことが容易になるからだとして、ウクライナがロシアの犯罪を告発するのはゼレンシキー大統領の外国訪問のときだけだと主張しています。そのために、ウクライナの指導部は、実際はネオナチだったとされる民間人の死を偽装する用意がある、とTASS通信は伝えています。このように、ロシアのプロパガンダは、ウクライナは資源を必要とするだけで国際的な安全保障構造の中で特別な役割を果たしていないというイメージを植え付けることを目的として、極めて非合理的で歪曲された主張に拠っています。

フロザ村の墓地における新しい墓 写真:Reuters

本格的な侵略が始まる遥か以前から、ウクライナが国際組織の一員として、あるいは独自に、他国とどのように協力してきたかお伝えします。

ユーゴスラヴィアにおけるウクライナ初の平和維持活動

1992年から1995年にかけて、ウクライナはユーゴスラヴィアの国連平和維持活動に参加しました。当時、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラヴィアからの独立を志向していました。この決定は国連を含む国際的な支持を受け、国連はこれを民族の自決権として認めました。これが、当時の国家形態を維持しようとするセルビア軍とユーゴスラヴィア各共和国との戦争の始まりでした。

ユーゴスラヴィア
1918年から1992年まで存在したバルカン半島の連邦。セルビアを中心に、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアなどが加盟していた。

ユーゴスラヴィアでのウクライナ平和維持軍 写真:アンドリー・フルソヴィチのアーカイブ

1995年7月11日、セルビア人勢力はスレブレニツァで8,000人のボスニア人ムスリムを殺害しました。彼らは、このコミュニティーの多くのメンバーが同じく住んでいたジェパ村で、更なる大規模な民族浄化を計画しました。たった9台の装甲兵員輸送車と軽火器で、2週間にわたり、2,000人のセルビア人勢力から村を守ったのは、ウクライナ軍の第240別働隊の兵士79人でした。その結果、セルビアのラトコ・ムラディッチ将軍は、ウクライナ側に交渉を申し入れなければなりませんでした。ミコラ・ヴェルホフリャード大佐は、住民のために緑の回廊を確保することに成功しました。避難は7月25日に開始されました。当時、ウクライナの平和維持軍はフランスの平和維持軍の支援を受け、住民を避難させました。60台以上のバスが参加し、5,000人以上を輸送しました。この作戦は、2014年までの近代ウクライナ軍の歴史の中で最も成功した作戦と呼ばれています。

ボスニア紛争時のミコラ・ヴェルホフリャード大佐(左)とセルヒー・クーツ上等曹長 写真:セルヒー・クーツのアーカイブ

Share this...
Facebook
Twitter
Полковник Микола Верхогляд (ліворуч) та старший прапорщик Сергій Куц під час війни в Боснії. Фото: архів Сергія Куца.

1995年7月25日、ジェパのバスの近くに集まるボスニアのムスリムたち 写真:オレクサンドル・ロゼツィキーのアーカイブ

Share this...
Facebook
Twitter
Боснійські мусульмани збираються біля автобусів у Жепі, 25 липня 1995 року. Фото: архів Олександра Розецького.

3年間で約1,300人のウクライナの軍人がユーゴスラヴィアの平和維持活動に参加し、うち15人が死亡しました。彼らの主な任務は、戦闘を止め、状況を安定させることでした。兵士たちは通りをパトロールし、治安を監視し、人道支援を護衛しました。

ジョージア / サカルトヴェロにおけるウクライナの人道支援活動

1993年、ウクライナは初めて、国際機関の指揮なしに平和維持活動に参加しました。サカルトヴェロ(正確な国名はジョージア)は、ロシアの支援を受けて独立を目指すアブハジアの分離主義者と、北コーカサスの武装勢力との武力紛争の舞台でした。これに対抗したのがジョージア政府です。戦闘の激しい局面が終わり、自称アブハジア共和国が設立されました。その結果、何千人もの人々が民族的迫害のために難民となりました。彼らはスヴァネティの峠を通って国の中心部に行こうとしましたが、突然の寒波と激しい吹雪のため、人々は飢えや怪我、凍傷に苦しみました。当時のジョージア当局は、避難のためのヘリコプターを十分に持っていなかったため、協力国に支援を求めました。

ジョージアからの難民 写真:ukrmilitary.com

ウクライナは15機のMi-8ヘリコプターと106人のヘリコプターパイロットの部隊を派遣しました。避難初日だけで570人、2日目には2,162人を救助。砲撃を受けていた中でも、毎日最大6便が飛行しました。1993年10月10日から14日までに、約8,000人が救助されました。

着陸や離陸に最も危険な場所のひとつ 写真:ukrmilitary.com.

2008年8月、ロシアがジョージア領土に侵攻した際、ウクライナは防空システム、対空ミサイルシステム「ブーク」および「オサ」と戦闘キットを送りました。迅速に届けられた装備のおかげで、ジョージア軍はロシアの爆撃機12機を撃墜することができました。当時のジョージア大統領ミヘイル・サーカシヴィリは、初期の段階で侵略を封じ込めるのは最も困難なことだったが、特にウクライナのおかげでそれが可能になったと述べています。ウクライナが繰り返し支援してきたにもかかわらず、ウクライナで本格的な戦争が勃発した後、ジョージアは以前に提供した対空ミサイルシステム「ブーク」の返還を拒否しました。

ミヘイル・サーカシヴィリ オープンソースからの写真

マケドニアへのウクライナの軍事支援

1991年、マケドニアはユーゴスラヴィアからの独立を宣言し、平和的に独立した唯一の旧ユーゴスラヴィア共和国となりました(正式名称は2019年から北マケドニア共和国)。アルバニア人はマケドニア人に次いで2番目に大きな民族共同体となりました。彼らは政党を結成し、さまざまな政治問題の解決に参加していきました。しかし、2001年までに、公的機関や教育現場でのアルバニア語の使用が制限され、アルバニア国旗の使用も禁止されるなど、状況は悪化の一途をたどりました。

国名がマケドニアから北マケドニアに変更されるギリシャとの国境の標識(2019年2月13日) 写真:Getty Images.

紛争の発端は2001年1月22日、アルバニア人武装反乱軍「民族解放軍」がテアルツェ村の警察署を襲撃し、警察官1人が死亡、3人が負傷したことでした。当時、国際的な安全保障同盟に加盟していなかったマケドニアが、武装勢力から自国を守るためにさらなる武器を必要としていたところ、NATO諸国は交渉による解決を提案しました。

2001年3月、マケドニアはパートナー国に支援を要請しました。ウクライナはマケドニア政府との間で、武器を低価格で販売する二国間協定を締結しました。同年3月、機関銃を装備したMi-8MTが4機、Mi-24が2機といったウクライナのヘリコプターの第一陣が到着しました。その後6月には、さらにMi-24ヘリコプター4機とSu-25攻撃機4機が到着しました。紛争を政治的に解決しようとするNATO諸国の不満にもかかわらず、ウクライナはマケドニアに武器を供給し続けました。2001年8月初旬には、ウクライナの工場で改修された戦車30両と装甲兵員輸送車20両が送られました。2001年8月13日、マケドニア政府とアルバニア政治勢力がオフリド合意に調印し、紛争は終結しました。

2001年夏、武装勢力の陣地を攻撃するウクライナのヘリコプター 写真:Getty Images.

ウクライナでの本格的な戦争が始まって以来、北マケドニアはさまざまな種類の弾薬や武器を提供してきました。援助総額は同国の年間国防予算の約16%を占めています。北マケドニアはまた、2001年に購入したSu-25軍用機4機をウクライナに返還しました。

イラクでのウクライナの平和維持活動

独裁者サダム・フセインの政権が崩壊した後、国連はイラクの安定を取り戻すため、多くの国に協力を呼びかけました。2003年5月、ウクライナ軍第5機械化旅団は、イスラム過激派がゲリラ戦を展開するイラクに多国籍軍の一員として派遣されました。2005年春にウクライナ軍の任務が完了した後、米国はウクライナに対し、軍事顧問およびオブザーバーとしてイラクでの作戦を継続するようオファーしました。

イラクでの戦闘任務前のウクライナ兵 写真:Facebook (Yuri Le).

イラクでの軍事作戦は、ウクライナ独立を回復してから史上最大規模の対外任務のひとつです。2008年までの5年間で、1,600人以上のウクライナ軍兵士が参加し、うち18人が死亡、40人が負傷しました。

日本で活躍するウクライナの科学者たち

史上最大の原発事故であるチョルノービリ原発事故にウクライナが直面したとき、日本は原発シェルターや人道支援プログラムに資金を提供した最も大きな支援国のひとつとなりました。そのため、日本で原子力災害が発生したとき、ウクライナは黙ってそれを見過ごすわけにはいきませんでした。

2011年3月11日、強い地震と津波により福島第一原子力発電所の原子炉冷却システムが損傷しました。核燃料の温度が高くなったため、水素爆発や火災が数日間にわたり発生しました。警察庁によると、2023年時点で、自然災害とその影響により15,900人近くが死亡し、行方不明者は約2,523人となっています。

2011年3月11日、地震と津波により浸水した東北地方名取市の家屋 写真:Reuters.

日本は放射能を研究する様々な科学機関を設立し、そこで日本が専門家を探した先がウクライナだったのです。同じような災害を経験し、放射能が環境に与える影響を研究し、そして最も重要なこととして放射能から自国を守る方法を知っている国の経験に興味を持ったのです。例えば、チョルノービリ原子力発電所の元チーフエンジニアであるミコラ・シュテインベルフは、ウクライナがどのように放射線から発電所の職員を守ったかを日本の専門家に話しました。また、科学者であり学者でもあるドミトロ・バジカは、チョルノービリ原発事故の被害者治療における経験を語りました。ウクライナの専門家は、研究機関や省庁に招かれ、講演を行いました。

日本での人道支援物資の荷下ろし 写真:Yoshikazu Tsuno / AFP via Getty Images.

また、2011年8月4日には、日本政府からの正式な要請を受け、ウクライナは非政府機関を通じて、線量計・線量計放射線計・ガスマスクなどの個人用放射線防護具を積んだ人道支援物資を送りました。

コロナウイルスとの戦いとウクライナ

COVID-19の大流行中、この感染症が次々と各国に影響を及ぼしていたとき、ゼレンシキー大統領は、集団感染の最初の波が発生したイタリアを支援するため、医師団と医療機器を派遣する法令に署名しました。イタリアに到着したのは、感染症専門医・集中治療医・外科医・麻酔医・看護師など、さまざまな専門分野を持つ合計20人の医師たちでした。イタリアの多くのメディアは、専門家たちの到着を報じ、ウクライナがアルバニアやポーランドとともにイタリアに具体的な支援を提供していることを伝えました。

コロナウイルスの大流行が始まって以来、ウクライナの航空機「ムリーヤ(「ムリーヤ」はウクライナ語で「夢」)」は医薬品・医療機器・防護具を世界中に届けました。 写真:2020年4月27日、アンネグレート・クランプ=カレンバウアードイツ国防相(左)とAn-225機で輸送された医療用マスク。 写真:Getty Images.

コロナウイルスによるパンデミックの際、ウクライナは中国から西側諸国に医薬品を輸送しました。ロシアのホストメリ侵攻で損傷した当時世界最大の輸送機An-225「ムリーヤ」は、他国のパンデミック対策に貢献しました。例えば、ポーランドとフランスに1,000立方メートルを超える防護服を輸送しました。

トルコでのウクライナ人救助隊の活躍

ウクライナは2021年7月、深刻な森林火災が発生したトルコを最初に支援しました。2機のAn-32P消防航空機がムーラ県に到着し、火災の拡大を食い止めました。オスマニエ・カイセリ・コジャエリ・アダナ・メルシンの各都市にも延焼したアンタルヤ県の火災を消火するためにウクライナ国家非常事態庁の航空機が数日後飛行しました。火災は同年8月12日にようやく鎮火しました。

トルコに派遣された消防航空機 写真:ウクライナ国家非常事態庁

2023年、トルコ南部と中部を強い地震が襲い、5万人以上が死亡しました。ウクライナから87人の救助隊が派遣されました。10日間で1人の女性が救出され、9人の子どもを含む58人の遺体が瓦礫から搬出されました。ウクライナの専門家も約500棟の建物を点検し、瓦礫の撤去を支援し、被災者に医療を提供しました。

トルコ南部アダナ市の被害状況 写真:Reuters.

ウクライナ軍によるアフガニスタンからの人々の避難

2021年8月にNATO軍がアフガニスタンから全面撤退した後、タリバンがカブールを占拠しました。当時、外国人を含む多くの人々が国外脱出を試みました。カナダ軍で働く19人のアフガニスタン人通訳は、家族とともにカブールの飛行機に乗り、カナダに飛ぶはずでした。しかし、テロ組織ISILが首都の空港で組織したテロ攻撃のため、オープンビザを持つアフガニスタン国民は、外国人の同伴がなければ出国できないと発表されました。

ISIL
「イラク・レバントのイスラム国」は、2003年からイラク・シリア・アフガニスタンを中心に活動している未承認テロ国家

カブールから6回のフライトで約700人を避難させたウクライナ機 写真:Getty Images.

通訳の返還交渉に何度か失敗した後、カナダ当局は米国務省とカタールを頼りましたが、彼らの働きかけによっても状況は改善されませんでした。そこでカナダが助けを求めたのがウクライナでした。ウクライナの兵士たちがアフガニスタンの首都の中心部に向かい、地元のバザールで通訳を乗せたバンを見つけ出して空港まで案内しました。無事移動した通訳とその家族はキーウに到着し、カナダに戻りました。

カナダ軍に協力したウクライナの特殊部隊によって救出されたアフガニスタンの通訳者たち 写真:イェウヘン・マロリェートカ

ウクライナ軍は数ヵ月間で、アフガニスタンからウクライナ人を含むさまざまな国の市民500人以上を避難させました。

コンゴ民主共和国におけるウクライナ最後の任務

1994年4月6日、ルワンダでフツ族によるツチ族の大量虐殺が始まりました。3ヶ月で80万人のツチ族と殺害を拒否したフツ族が殺害されました。加害者たちはコンゴ民主共和国東部諸州に逃亡し、そこで武装グループを結成して民間人を攻撃し続けました。

2012年、ウクライナ軍第18ヘリコプター部隊は、コンゴ民主共和国情勢を安定させるための国連平和維持活動に参加しました。156名のウクライナ軍兵士が参加し、ウクライナのヘリコプターが国連軍の3分の1を占めていました。主な任務は、負傷者や病人の避難・偵察・パトロールでした。10年の間に、ウクライナのヘリコプターは22,473時間以上飛行し、116,280人以上の乗客と貨物(総重量5,600トン)を輸送しました。この間、12回のローテーションが実施されました。

コンゴ民主共和国のゴマ飛行場でMi-24ヘリコプターを修理するウクライナの平和維持兵(2019年12月5日) 写真:ヴォロディーミル・ペトロウ、Kyiv Post

ロシアによる全面侵略により、ウクライナ平和維持軍は任務を完了することができず、ゼレンシキー大統領の命令により、2022年にコンゴ民主共和国を離れました。

2015年12月、コンゴ民主共和国でのウクライナ平和維持要員の表彰式 写真:ウクライナ国防省

独立宣言以来、ウクライナは犠牲者の救出・紛争解決、平和維持を目的とした国際ミッションに参加してきました。困難や敵との戦いにもかかわらず、ウクライナは国際的な支援を受けるだけでなく、国際社会の一員として、支援を必要としている国々を支援する態勢を整えています。

コンテンツ作成スタッフ

Ukraїner創設者:

ボフダン・ロフヴィネンコ

企画:

マルハリータ・ヤキモヴィチ

編集:

ヴィクトリヤ・ドドコフスカ

編集長:

ナタリヤ・ポネディロク

写真編集:

ユーリー・ステファニャク

コンテンツマネージャー:

カテリーナ・ユゼフィク

テーマ研究:

イェホール・ウクレイン

セルヒー・ドゥドロフ

グラフィックデザイナー:

オレクサンドラ・オノプリイェンコ

パートナーシップ部門コーディネーター:

マリアン・マンコ

プロデュース部門コーディネーター:

マリーナ・ミツィウク

研究部門コーディネーター,

テキスト部門コーディネーター:

ヤーナ・マゼパ

脚本家コーディネーター:

カリーナ・ピリューヒナ

カメラマンコーディネーター:

オリハ・オボリナ

フォトグラファーコーディネーター:

ユーリー・ステファニャク

映像編集コーディネーター:

ミコーラ・ノソーク

トランスクライバーコーディネーター:

オレクサンドラ・ティタロヴァ

チーフコピーライター:

ダリーナ・ムドラク

コンテンツマネージャーコーディネーター:

カテリーナ・ユゼフィク

デザイン部門コーディネーター:

カテリーナ・プタシュカ

マーケティング・コミュニケーションリーダー:

テチャーナ・フランチューク

SMMコーディネーター:

アナスタシア・ボブコワ

ソーシャルマーケター:

ヴラディスラウ・イヴァノウ

コマーシャルパートナーシップマネージャー:

オレクシー・オリヤル

オペレーションマネージャー:

リュドミーラ・クチェル

ファイナンシャルスペシャリスト:

カテリーナ・ダニリューク

経理:

ナターリヤ・タフラトヴァ

カテリーナ・スムーク

アンナ・コステューク

法律家:

オレクサンドル・リューティー

記録保管:

ヴィクトリヤ・ブドゥン

Ukraїner Internationalコーディネーター:

ユリヤ・コジリャツィカ

Ukraїner International編集長:

アナスタシヤ・マルシェウシカ

翻訳:

藤田勝利

Ukraїnerをフォローする